2012年5月16日 (水)

ロビンソン・クルーソー

   ロビンソンでは、死は最も重苦しい。これ以上に退屈な小説は思い当たらない。まだこれを読んでいる子供を見るのは、つらいことだ。ロビンソンの世界観は、ただひたすら所有にある。これほど道徳的な所有者は、かつて誰も見たことがない。
(中略)
   ロビンソンの伴侶は、イヴではなく、フライデーである。彼は労働に従順な、嬉々とした奴隷であり、余りに早く人類学に飽きてしまう。健康なあらゆる読者は、彼がついにロビンソンを食べるところを見たいと夢想することだろう。

『無人島』1953-1968 ジル・ドゥルーズ 監修 前田英樹 河出書房新社

  フライデーは善良な人間として描かれているが、もし食人の風習を持っていたとしたら、エイリアンの侵入した宇宙船のように、島は悪夢の島と化す。現代人にはそちらのプロットの方が好みなのだろう。若い男女が無人島に漂着するという設定は魅力的であるが、いがみあっている者、価値観が違う者、暴力をふるう者同志が限られた領域に閉じ込められたとしたら、一体何が起きるのだろうか。無人島に限らず、店舗、支所、派出所といった場所で、現実にはどのようなことが起きているのだろうか。全く口をきいたことのない気の合わない相手と出張に行かなければならないとしたらどうだろう。

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2012年5月15日 (火)

入れ墨

 

 

 

 大阪市の橋下徹市長が入れ墨をしている職員に分限(免職)はあり得るという考えを示した。当然の措置だとは思うが、個人的に入れ墨を楽しんでいる人はどのような感想を持つのだろうか。有名人ではベッカム、ブラッド・ピット、アンジェリーナジョリー、安室奈美恵、酒井法子などがやっているようだが、「入れ墨を楽しむ権利を認めろ! 」といった方向に話は進んだりはしないのだろうか。 

 入れ墨を除去するには費用がかかるから、「間違い虫」の入れ墨で消したことにするのはどうだろう。あるいは、二重線を引いて、訂正印の入れ墨を入れるのである。

 

 公務員の入れ墨はだめだとしても、鼻ピアスぐらいなら許されるだろうか。広末涼子の夫のキャンドル・ジュンのようなでっかい角のようなものを耳に差した公務員はどうだろう。ニューギニアのダニ族が研修で市役所を訪れることになったとき、キオ(ペニスケース)をはずしてくれと根回しをしておいた方がいいだろうか。それは彼らの誇りを傷つけることになるかもしれない。

 

 小林よしのりの『東大一直線』に登場するチョンマゲ先生は、教師にあるまじきヘアスタイルかもしれないが、とてもいい先生である。

 

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2012年5月14日 (月)

阿部寛はローマ人に見えるか?

  テルマエ・ロマエの阿部寛は特に外国人の血が混じっている、というわけではないそうだが、濃い顔立ちである。しかし、テルマエ・ロマエでイタリア人に囲まれているシーンでは、彼の顔が見慣れた顔だからかもしれないが、日本人に見える。どちらかと言うと平井堅の方が日本人離れしているようだが、その「日本人離れ」とはどういうことだろう。「平たい顔」ではないということだろうか。佐久間象山や南方熊楠も非常に濃い顔立ちをしているが、日本人だと言えば、なるほど日本人である。ダルビッシュは整った顔立ちであるが、「濃い」というイメージではない。「パックン・マックン」のマックンやボビーオロゴンも、顔立ちは日本人ではないのだが、最近日本人に見えてきた。要するに、慣れの問題じゃないだろうか。「これが日本人の顔だ」などと最初から決めてかかる必要はないのである。

  女性ではどうだろう。西洋人的、というわけではないが、整った顔立ちという点で陸奥宗光の妻の陸奥亮子が美しいようだ。唐人お吉もなかなかかわいらしい顔立ちをしている。デヴィ夫人の若い頃の写真もぜひ検索して見てほしい。

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2012年5月13日 (日)

行司の短刀

  立行司の木村庄之助と式守伊之助が差している短刀は本物らしい。刺し違えたら切腹をするという覚悟を示している。本当に切腹することはないとは思うが、それだけの責任感の表明なのだと思う。花嫁の懐刀も、自分の身を守ると同時に、夫が殺されたときに自害するためのものでもある。アラブ人が持つジャンビーヤという短剣は戦闘以外、宗教的な儀式に使われ、この短剣を所有することが自由人の誇りなのだそうだ。日本人の「手刀を切る」という行為は、「ちょっと前を失礼」といった場合に行われるが、外国人力士も審判員の前を通るときに自然にやっているようである。また、懸賞金を受け取るときに、軍配に向かって左、右、中の順に手刀を切るという仕草もある。
  こうした儀式や儀礼を若者は行わないようだが、「バカバカしい」「ニホンジンハヘンデスネエ」などと言われても、アラブ人のジャンビーヤのように堂々と受け継いでいくことによって日本文化が伝承されるのだと思う。そうしないと、日本人がどんどん日本人じゃなくなっていくような気がする。「前を失礼」の手刀はむしろ外国に輸出してもいいのではないだろうか。
短刀を差すことは現代の日本では無理だが、それに代わる、自分の覚悟を表明するようなアイテムが何かないだろうか。ギャンブル運や恋愛運のグッズをジャラジャラつけるよりカッコいいと思うのだが。

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2012年5月12日 (土)

   日本で「都」といえば、天皇陛下がお住まいになられているところ。一九二三(大正十二)年の関東大震災後、天皇が京都にお戻りになるのではないかと噂されたので、当時摂政だった昭和天皇が詔書で「東京は帝国の首都」と布告された。このような経緯があり、四三(昭和十八)年に東京府と東京市を統合する際、東京「都」という名称が採用されたわけだ。単に府と市が再編したら「都」というのは、天皇陛下がいらっしゃるから「都」なのだという歴史性を軽んじている。
週刊文春5月17日号 あなたは橋下徹総理を支持しますか? 「ニセモノの愛国者だ」小林よしのり

  橋下氏の意気込みは理解できるが、「大阪都」という名称だけはしっくりこなかった。単なる慣れの問題ではなく、首都が複数できるの? という単純な疑問である。「そういう問題じゃない」と橋下氏に叱られそうであるが。小林氏にしろ橋下氏にしろ、「こんなこと言ったら叱られるかもしれないなあ」という思いで接している人が多いのではないだろうか。

  大阪は水の都である。水の都と呼ばれる町は平泉、新潟、広島、松江、ヴェネツィア。花の都はパリ、杜の都は仙台、黄金の都はエル・ドラド、音楽の都はウィーン、霧の都はロンドン、芸術の都はパリ、映画の都はハリウッド、ファッションの都はパリ・ロンドン・ミラノ・ニューヨーク、死者の都はネクロポリス、砂漠の都はハムナプトラ、食の都は大阪はじめ、各地にあるようだ。でも、そういう「都」じゃダメなわけね。

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2012年5月10日 (木)

総力結集

  今の日本は内輪もめや足の引っ張り合いをしている場合ではない、ということは誰もがわかっているのに、総力を結集することができないのはなぜなのか。各分野で相変わらず権力闘争や頭の良さ競争が続いている。たとえば自殺者をなくしたいという目的で、教育、産業、報道、宗教、科学、芸術…がチームを組めば、問題解決に一歩近づくことができるはずなのに、それを束ねるシステムがない。他の分野を馬鹿呼ばわりする人は多いが、総合力を兼ね備えた人は非常に少ないのが現状である。昨年より日本人は「絆が大切だ」ということを身にしみて知ったわけだから、今度は具体的に日本というチームを結成する方向に持っていく必要がある。批判することは大切だが、嘲りには意味がない。批判は論理的に遂行されるものだが、嘲りにはエゴが入っているからだ。「ぼくはイケてるでしょう」「ぼくは頭がいいでしょう」ということを強調したいから他人を嘲るわけだ。「ブサイク」「田舎者」「ハゲ」「年寄り」「外人」「貧乏人」といった嘲りにまともに反応する必要はないのだ。

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2012年5月 8日 (火)

ささやかな抵抗

  「就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に」(読売新聞)ということだが、なぜそう生真面目に思いつめてしまうのか。数日前に「自切」などという消極的な方法を述べたが、その前に抵抗しなくていいのか、とふと思った。抵抗といっても、違法行為とかヒステリックな言動ではなくて、もっとくだらないことや、役に立たないことをしたらどうだろう。愚かなことをする権利(愚行権)というものを人間は持っているのだ。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、「絆」とか「命の大切さ」とか「感動をありがとう」といった説教くさい言葉ばかり聴いているとウンザリしてこないか? 世の中、そんな立派な人ばかりではない。くだらないことをする人が他人の心をほぐすことだってあるのだと思う。世の中には「馬鹿だな」と思える人が必要なのだと思う。

嘉門達夫 反抗期Ⅱ 『天賦の才能』より

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2012年5月 7日 (月)

トランスフォーマー自動車

  日産セレナに乗っている。家族と遠出するには適当な大きさだが、通勤の場合は一人が移動できれば十分なので、8人乗りというのは無駄な気がする。かと言って、もう一台自動車を所有するほどの余裕はない。キャンピングカーを牽引するのは大げさだし、市街に駐車するのには不便である。運転手と乗客がワンボックス内に納まらないというのもつまらない。素人考えで言えば、通勤時と行楽時ではトランスフォーマーのように形態が変わってくれればいいのに、と思う。たとえば通勤時には一人乗りユニットを用いて、後部のシート部分は車庫に残しておく。軽量化にもつながり、燃費も向上するというわけだ。乗客のスペースをはめ込み式のカセットにしてもよい。サンダーバード2号のように、用途によってはめるパーツを変えるのである。たとえばお父さんが釣り好きだと、車内にコマセの臭いが染み付いてしまうので、釣り専用のカセットを装着してもらうのである。しかし、普通の車庫にいくつものカセットを収納することは難しいので、カセット部分だけレンタルするという手もある。レジャーは毎日出かけるわけではないので、使いたい時にレンタルするのだ。

<車体を利用した広告>
※外観にあまりこだわりの無い人は、乗合バスのように、車体に有料で広告を掲載するというのはどうだろう。「水曜どうでしょう」のステッカーを貼っている人もいるが、テレビ番組の宣伝を有料で請け負うという手もある。痛車で後ろの運転者向けにモニターでアニメを流している人もいるが、実益を兼ねて、映画の宣伝などはどうだろう。警察から「やめなさい」と言われるだろうか。

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2012年5月 6日 (日)

和風の車の名

  プリウスはラテン語で「~に先だって」、セレナはスペイン語で「晴れ晴れとした」、ムラーノはベニスの近くの島、エリシオンはギリシア神話の楽園…というように、車の名前は、ラテン語、フランス語、スペイン語、ギリシア語などからつけられたりする。これらの言語は日本人には馴染みが薄いので、新鮮に聞こえるのかもしれないが、同じく馴染みの薄いロシア語や中国語やスワヒリ語やウルドゥー語からは引用されない。「オシャレ」感がないのだろうか。
逆に外国人は和風の名称にどういう語感を持つのだろう。「ミカド」「ニンジャ」「サムライ」などは知名度が高いかもしれないが、日本人としては何だか恥ずかしい。スポーツ関係者は「サムライ」という言葉を使いたがるが、われわれ日本人には「武士」の方がしっくりくる。「サムライ」という言葉は「おサムライ様」とか、「芋ザムライ」「サヤザムライ」「犬ザムライ」「フナザムライ」という否定的な用例が多い気がする。
  「昴(スバル)」は異国的な響きを持った日本語である。光岡自動車の「オロチ」も、語感はどうかわからないが、その名の由来は外国人にウケるのではないだろうか。
 車に「マツモトキヨシ」的な、日本人の固有名詞を車につけるというのはありだろうか。海外向けのサービスとして、漢字のロゴを車にプリントしてもよい。たとえば「ムサシ」「コジロウ」「サスケ」「ハンゾウ」といった名はどうだろう。「イチロー」や「ユウ」が外国人に異国情緒を感じさせる名だとすると、「タロー」といった日本人の普通の名前もアリかもしれない。「伊右衛門」が車の名だっていい。女性向けに「サダコ」は?

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2012年5月 5日 (土)

貞子・お岩・伊右衛門

  貞子と聞くと、現代日本人の多くはあの『リング』の貞子を思い浮かべてしまうだろう。緒方貞子さんにあやかって娘に『貞子』と名付けたとしても、『リング』の貞子がついてまわるかもしれない。名前でいじめられたりすることのないことを望むが、『リング』の「貞子」が妙に耳に残るのはなぜだろう。
  四谷怪談の「お岩」という名前もキャラクターと強く結び付いているが、鶴屋南北(1755-1829)の『東海道四谷怪談』以降、岩という名前の女の人の数は減少したのだろうか。お岩を惨殺する夫は伊右衛門という名で、お岩の幽霊に苦しめられる。サントリーの緑茶「伊右衛門」は京都の製茶会社の老舗である福寿園の創業者、福井伊右衛門に由来するというが、四谷怪談がテレビや映画でリメイクされ、若者にもその名が知れた場合、サントリーは「名前を変えてもらえないか」などと圧力をかけるのだろうか。まあ、そんなことはないとは思うが、お茶の名前を考える会議で、「伊右衛門はやめましょうよ」といった意見は出なかったのだろうか。

  父親がアダルトビデオのファンだと、多くの女性の名前のパターンが頭に入っている。自分の娘に名前をつけるときに苦労したりしないだろうか。考えすぎか。

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2012年5月 4日 (金)

自殺じゃなくて自切

  自切(じせつ)は、節足動物やトカゲなどに見られる、足や尾を自ら切り捨てる行動(ないし反応)。なぜ自ら体の器官を切り捨てるかは状況やタクソン(分類群)により異なると思われるが、主に外敵から身を守るために行われる例が多い。すなわち外敵に捕捉された際に肢や尾等の生命活動において主要ではない器官を切り離すことで逃避できる可能性を作り、個体そのものが捕食される確率を下げるための適応であると考えられている。そのため自切する器官はあらかじめ切り離しやすい構造になっていたり、喪失した器官を再生させる等の機能を持つ種が多い。
wikipedia

  蟹などを縛って陳列してあるのも、自切を防止する目的だという。「トカゲの尻尾切り」といった、マイナスのイメージがあるが、様々なシガラミに捕らわれて自ら命を断つぐらいなら、多少痛い思いをしても、自分の尻尾や節足を切った方がましではないだろうか。親や先生は「最後までがんばりなさい」「死ぬまでがんばりなさい」と言うばかりだが、各人に合った逃げ方を習得しておく必要があるのではないだろうか。「命の大切さ」を学んだからといって、自殺防止に効果があるかどうか、私は疑問に思う。命の大切さより、まずは自分の大切さ、切り捨てていいものと、切り捨ててはいけないものの選択、といったことから学習した方がいいと思うのだが。

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2012年5月 3日 (木)

ゾンビは時間の経過を知ることができるだろうか

  内的経験(クオリア)を欠いた存在が哲学的ゾンビとよばれるものであるが、彼らは時間の経過を知ることができるだろうか。時間の経過は感覚で知るものではない。ある対象の、2つの時点をとりあげ、そこに何か変化が起きていることがわかれば、時間が経過したことを知ることができる。そのためには2つの時点を特定しなければならないが、哲学的ゾンビは「今」(他ならぬ、まさに今)ということが理解できるだろうか。もし今が理解できれば、「過ぎ去る」ということも、感覚によらずに把握することができるだろう。哲学的ゾンビは表面上は人間らしい受け答えをすることができる。ためしに「昨日の夕食は何を食べましたか」という質問に対して、「カレーを食べました」と返答したとする。質問者は日付で質問するのではなく「昨日」という言葉を用いているだけである。確かに哲学的ゾンビの答が事実と合致していたなら、少なくとも彼は「昨日」という概念は持っているのではないか? 

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2012年5月 2日 (水)

感覚が遮断された状態で、われわれは時間の経過をどうやって知るのだろうか

  すべての感覚がなく、外界を観察することもない状態で、どうやって時間を知ることができるだろうか。「腹がすいた」という感覚もない状態だとしよう。自分に知ることができるのは思考の流れであるから、たとえば数字を1、2、3、と数えていき、たとえば「さっきは5だったが、今は17だから、12カウント分だけ時間が経過したのだ」などと判定するのだろうか。カウント以外には何か方法があるだろうか。たとえば自分の生涯を振り返ってみるというのはどうだろう。幼少期から現在までの出来事を、覚えているかぎり想起していくのである。「今中学1年まで想起した」「今高校卒業まで想起した」と区切りをつけ、中学より高校の方が時間的に後だから、私は想起することによって時間の経過を知ることができたのだ、などと主張することはできるだろうか。では、思い出す事がない記憶喪失者は時間の経過を知ることができるのだろうか。
  眠ってしまったら時間の経過は正確には知ることはできない。眠ったと思ったら、あっという間に翌朝になってしまった、ということはある。眠っている間はカウントの類が実施されなかったからだろうか。「無意識でカウントしていた」というのはだめで、意識がある状態でカウントすることが条件になるのだろうか。
  タイムトラベルに関してはどうだろう。一切の感覚が遮断された私が、10分前にタイムトラベルした、と主張しても確かめようがないではないか。タイムトラベルした、ということの意味も見出せない。もし、20年前の自分にタイムトラベルしたなら「明らかに精神が未熟だ、私は過去の自分に戻った」「おや、私はまだ彼女を愛している。とすると、失恋する前にタイムトラベルしたのだな」などとわかるものだろうか。タイムトラベルが意味を持つような語り方なり世界観といったものがあって、その条件を満たさなければ、タイムトラベルは意味がないのではないかと思う。

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2012年5月 1日 (火)

過去をなかったことにするには?

  過去のある出来事を、なかったことにするにはどうすればいいのだろうか。記録媒体を全て消去する、目撃者の記憶を消去する(場合によっては目撃者を消去する)、物的な痕跡を消去する、ということで十分だろうか。もう一つ、自分の記憶を消去する、という手続きが残っている。ただ、記憶の全てをフォーマットすると、自分が誰だかわからなくなってしまうので、特定の記憶を選んで消去しなければならない。
  われわれは日常、多くのことを忘れている。約束の時間、人の名前、自分の行った場所、昨日の食事のメニュー…しかし意図的に「あれを忘れたい」ということはどのようにして可能なのだろう。「あれ」と名指しした時点で、むしろ記憶は強化されてしまっている。意識にのぼらせない、ということは可能かもしれないが、無意識に刻まれた記憶はなかなか操作できない。
  公的な約束事、たとえば公約やマニフェストをなかったことにするには、有権者も含めて誰もが忘れてしまえばいい。しつこく記憶し続けていて「おかしいじゃないですか」と異を唱える人が消滅すれば、なかったことにできる。政治家が上手な言い訳を言い続ければ、有権者を騙せるかもしれない。
  歴史はどうだろうか。水掛け論となっている議論も、自信たっぷりに、相手を罵倒して声高に叫び続ければ、都合のよい歴史につくりかえられる。印刷された歴史書なら、変えたい文章は墨塗りなどが必要となるが、すべてが電子書籍となれば、一発置換で歴史を変えることができそうだ。

  先々週、昔失恋した相手に遭遇したが、私の心の中では恋愛感情が「あの女が悪い」「あれは性悪女だ」という感情に置換されていた。本人がそんな状態なので、事実を知る者は誰もいないことになる。個人的な歴史が変えられてしまったのだろうか。

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2012年4月30日 (月)

草食系は女性に消極的?

  草食男子は女性とのつきあいに消極的だが、たとえば草食動物のウサギなどは繁殖力が強い動物らしい。肉食系=女性に積極的、草食系=女性に消極的、というイメージはどこからきているのだろうか。一般に肉食動物の方が凶暴というイメージだが、凶暴な男性は女性が最も嫌うタイプだと思う。むしろ草食系の爽やかな男子を女性は好むのではないだろうか。「草食系」という言葉で何かを表現しているように思えたのだが、あまり適切な比喩ではなかったのではないかと思う。

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2012年4月29日 (日)

ストリーキング・ムーニング

   最近は見ることはないが、ストリーキングは公衆の面前を全裸で駆け抜ける行為である。ムーニングはズボンやパンツを降ろして、尻を見せる行為である。露出狂ではなく、世間を騒がせたいという願望がもとになっている。これらを抗議目的で行う場合もあったらしい。抗議の方法としてはデモ行進、人間の鎖、国旗を燃やす、指導者の人形を痛めつける、生卵を投げる、ハンスト、焼身自殺・・・といった方法がある。。焼身自殺するほどの怒りが存在するということは理解できるが、自殺はしてほしくない。正論を声高に、ヒステリックに叫ぶだけでは目的を達することは難しい。自分の社会的地位を賭けるという意味でストリーキングやムーニングも真面目な抗議として復権させるというのはどうだろう。それが難しければ「中指を立てる」的なサイン。真面目な市民が「中指を立てる」行為をすることはないだろうが、何千人もの人間が同時に一つのサインをしたら、インパクトがあるのではないだろうか。

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2012年4月28日 (土)

テルマエ・ロマエの入浴上の注意

   埼玉県の「白寿の湯」へ行ってきた。湯の成分が濃くて、床が千枚田のようになっている。混んでいないし、レストランのうどんがなかなか美味かった。連休で高速は渋滞かもしれないが、花が咲き乱れる一般道は対向車もほとんどなく、非常に快適である。
  脱衣場に映画『テルマエ・ロマエ』のポスターの他に、宣伝用のおまけだと思われる「入浴上の注意」が張り出されてあった。ローマ人風のキャラクターを用い「湯船にタオルをつけてはいけない」とか「体をよく洗って入浴するように」などと、日本語、英語、中国語、韓国語で表記してある。多分、ローマ人が入浴することはないだろうし、読解できる日本人もいないだろうが、ジョークをより徹底させるためにはラテン語表記が欲しい。これは衒学趣味だろうか。いや、お笑いのセンスだと思う。

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2012年4月27日 (金)

喋るスピードと口調を合わせる

  早口の人と、ゆっくり喋る人が対話した場合、話す速度は似通ったものになるだろうか? 高齢者に語りかける場合はゆっくりになるが、渡部陽一と対話する人は多分ゆっくりとはならない。渡部氏には早口を聞きとる能力があるとわかっているからである。
  つい口調を合わせてしまう、という点はどうだろう。「~とか」という口調が流行ったとき、「ばかな口調だ」と思いつつも、若者と喋るときについ「~とか」という言葉を使ってしまったことがある。ボランティアで中学生に勉強を教えているが、最近は彼らと喋るときに「~だし」「キモイ」などとつい言ってしまう。あと、口調ではないが、彼らがすぐにウンコの絵を描くので、私もついウンコの絵を描くようになってしまった。
  今絶対使いたくないのは「メチャメチャ」という言葉だ。「メチャメチャおいしい」という使い方が気に入らないのだが、テレビなどではおどろくほど多用されている。
  最近つい口にしてしまってまずいなあ、と思っているのはローラの口調で、さも無い事なのに「なんと」とつけてしまうのである。

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2012年4月26日 (木)

東京スカイツリーを利用したイベント

巨大人形劇にヒントを得て、東京スカイツリーを用いた超巨大人形の人形劇を考えてみる。実物大ゴジラ(55m~100m)の巨大人形も可能ではないだろうか(100mでも小さく見えるだろう)。ウレタンなどで軽く作ることがポイントだ。
バンジージャンプ、パラシュート降下、ケーブルを張ってすべり降りる、といった危険な遊びは禁止されるだろうが、巨大ブランコぐらいは許してもらえないだろうか。

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2012年4月25日 (水)

東京スカイツリーを映画に登場させるなら

  多分、スカイツリーを舞台にしたテレビドラマや映画が構想されていると思う。シリアスなドラマか、ラブコメディか、パニック映画か、SF映画か…怪獣が破壊するには巨大すぎる。テロリストがたてこもる、という『ダイ・ハード』的な設定もありえるが、テロリストは一体東京スカイツリーの何を憎悪するのだろう。外国の首脳が観光でスカイツリーに昇る、ということはありえるが。展望塔に閉じ込められた人質を救出するために、塔を昇るアクションシーンも考えられるが、ミッション・インポッシブルでトム・クルーズがブルジュ・ハリファからダイブするシーンを超える映像ができるかどうか。高さもブルジュ・ハリファには及ばないし、二番煎じだろう。ゴルゴ13はスカイツリーから狙撃をすることは可能か? 狙撃できても、どう逃走するかが問題だ。あまり派手なことを考えずに、しみじみとした味の作品をねらったらどうだろう。たとえば

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2012年4月24日 (火)

性格の悪いロボットをつくる

  ロボットに自意識を持たせる、というのは難問であるから、人格を作りだすということを考えてみる。従来のロボットはデスマス口調で少々物足りないので、性格の悪さ、頭の悪さなど、マイナスの特徴を出したらどうだろう。タメ口で喋ったり、ヤクザ口調で喋るロボットがいたら、より人間に近づけることができるのではないだろうか。2001年宇宙の旅のHALのように、頭がいいのに丁寧な喋りだと、妙にムカつく。
  個性がない、ということも物足りない。実在の性格の悪い人や頭の悪い人の特徴を取り入れ、さらにミックスさせるのはどうだろうか。たとえば田中眞紀子と田中直紀防衛大臣の性格をミックスさせたりするのである。
  先生の説教はいつも同じであるが、録音だと場面にそぐわないケースが出てくる。そこで、説教ロボットが空気を読みつつ、お決まりの説教をたれるというのはどうだろう。けっこう嫌われると思うが、自分の評判を気にする先生が多い中では嫌われ役も必要だ。

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2012年4月23日 (月)

犯罪者の寿命は長いか、短いか?

  罪を犯すという行為は、精神状態や健康状態に影響を与えるものだろうか。全く罪の意識を持たないような人間は、自己嫌悪に陥らず、健康的に暮らせるものだろうか。「罪の意識を持たない」ということ自体、健康的ではないのだ、という意見もあるだろうが。たとえばバイキングや海賊が略奪することに後ろめたさを感じたとは思えない。
  最初から悪の道を歩むものと、途中から悪くなった者、悪かったけれど改心した者、赤の他人には非道を働くが、自分の家族には愛情を注ぐ者、社会的地位が高いのに犯罪に走る者、頂点にのぼりつめた途端、悪人になった者、悪い事をしたにもかかわらず、バレなかった者・・・といった、様々なパターンが考えられる。
  プライバシー保護の観点からすると調査が難しいだろうが、結果を知りたい。

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2012年4月22日 (日)

新東名のサービスエリア

   新東名のサービスエリアが大混雑である。サービスエリアはファーストフード、コンビニ、農産物直売、雄大な景色、トイレといったものから構成されているので回転が速い。愛知県の刈谷ハイウェイオアシスや長野県の諏訪湖サービスエリアには日帰り入浴施設があるが、駐車場が広大だし、1回入浴するだけならそう時間をとることはない。多分アウトレット、映画館、美術館、遊園地などでは回転が遅く、次々と駐車することができないかもしれない。自分の都合だけで言わせてもらえると、サービスエリアに駐車して、料金所から高速を出ずに各地域の観光ができればいいのだが、そういうわけにもいかないのだろう。
   パッと見てパッと通り過ぎるものとしては、たとえば実物大ガンダムのようなものが適しているかもしれない。静岡県内の各サービスエリアに巨大ロボット実物大シリーズを設置するというのはどうだろう。ご当地ロボットのようなものである。マニアではない一般客なら、「へえー」と見上げて10分ぐらいで見学が終わるのではないだろうか。実物大ガンダムは高さ18mだが、ジャイアントロボは30m、ウルトラマン40m、メカゴジラ50m・・・チョイスは定年を迎えた世代に合わせた方がいいだろう。怪獣で言えば『大日本人』に登場する、海原はるかをモデルにした「締ルノ獣」が好みであるが、建設にあたって地元の反対運動が起きるだろう。
  牛久阿弥陀大仏は120mというから、メカゴジラぐらいなら、建設可能ではないだろうか。サービスエリアに特定の宗教のモニュメントを建設するわけにはいかないから、ロボットや怪獣が適しているように思う。JR高知駅前の坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎の巨大像のようなものでもいいかもしれない。

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2012年4月21日 (土)

都合のよい空想

   何もかもうまくいかないときに、これは体験型のドラマであって、自分は不幸な主人公の一生を追体験しているだけだ。不幸といっても平凡な不幸であるが、このドラマの作者はきっとリアルな作風なんだ、といった類の空想をすることがある。自分が本当は何者なのか、ということは忘れてしまっているが、それはドラマに没頭するために意図的に記憶喪失になっているのであり、この一生が終わったら店員が「お客様、いかがでしたか? では、記憶を復元いたしますのでね」などと言って、預けておいた記憶が戻ってくるのである。ご都合主義で全てうまくいくような人生ドラマは皆飽き飽きしているので、観客たちはちょっとリアルな不幸さを求めているのだ。「ご都合主義のハリウッド映画はもうウンザリだ」といった、ちょっとスノッブな人種なのかもしれない。で、何で人生ドラマを見たりするかというと、本当の人生の方もストレスが多い、うまくいかない人生だったりするからだ。
  「イケメンで頭脳明晰でお金持ちで女の子にモテモテ」という人生は皆のあこがれかもしれないが、そんなお子様向けの人生ドラマなんかくだらない、という評価を下す人生ドラマ評論家もいたりする。「ベネチア人生ドラマ祭」とか「ベルリン人生ドラマ祭」といったものも開催されるわけだ。大衆が一番好むのは、最初は不幸だったり、他人に馬鹿にされたりするが、あっとおどろく感動のどんでん返しで成功するといったパターンだろう。ポール・ポッツとか、スーザン・ボイルのような人生だ。

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2012年4月20日 (金)

人間発電所

ブルーノ・サンマルチノ:無類の怪力とタフネスを誇り、「人間発電所」の異名を持つ。長期に渡ってWWWF世界ヘビー級王者に君臨し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに出場し続けたことから「MSGの帝王」とも呼ばれた。
<wikipedia>

  ジャイアント馬場のライバルでもあり、友人でもある。カナディアン・バックブリーカーが得意である。この夏、電力不足が予想されるというので、ふと思い出したニックネームである。人間発電所はhuman power plant だが、サンマルチノは何発電だろうか。human dynamo は「非常に精力的で疲れを知らない人」だから、その最上級が人間発電所だろうか。

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2012年4月19日 (木)

見えない相手と将棋をする

  相手が人間かコンピュータかを伏せて将棋をしている人は、余計なおしゃべりなどは一切しない状態で、相手の差し手だけから判断して、相手が人間かどうかを判断することは可能だろうか。「強さ」は判断基準にはできない。パソコンゲームの将棋では強さのレベルを設定できるからである。たとえば、何度も対戦している相手なのだが「今日は冴えてないな」「今日は調子がいいな」というゆらぎがあったら相手が人間だと判断することは可能だろうか? その程度のゆらぎだったら、プログラムでいくらでもシュミレートできるはずである。
  では、完全に相手がコンピュータだということは分かっているとして、自意識があるかどうかをどう判断すればいいのだろう。あくまで将棋の差し手だけで判断するのである。多分、判断材料は何もないのだろう。結局自分はプログラムと対戦しているだけなのであって、自意識を持った相手など存在しないのだ、と思うかどうかはその人次第であるように思う。
  人間だと思っている相手に勝利するのと、プログラムに勝利するのでは、勝利の味は違うと言えるのだろうか。

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2012年4月18日 (水)

バーチャルな世界でのタイムトラベルは可能なのか

  時間順序保護仮説によれば、物理法則が共謀して、マクロの物体によるタイムトラベルを阻止しているわけだが、物理学を考慮しなくてもよい、たとえばバーチャルな世界ではどうだろうか。タイムトラベルで過去へ行き、過去の自分を殺したら、現在の自分は存在しないことになって・・・というパラドクスを、バーチャルな世界でも継承することになるのだろうか。物質がなくても、因果関係が成り立っているなら、すでに過ぎたことを変更することはできないという原則は保持されるのだろうか。たとえば将棋の対戦を一つの世界だと考える。あそこであの駒をこう動かしたことで、こうなって、こうなって、結局負けてしまった、だから「タイムトラベル」でその時点に戻って別の手を選ぶという行為は、パソコン相手に将棋をしているなら許される行為かもしれないが、人間対人間の対戦では明らかに「ありえないこと」「やってはいけないこと」「許されないこと」である。将棋盤や駒という物質が無くても将棋は成立する。つまり別に物理学は関与していないのだが、過去を改変することは許されない。
  仮に過去を改変することが許されたとしても、最初の時点では先が読めない、あるいは間違った読みによる選択であったのに、過去を変えてやろう(別の駒の動かし方をしよう)という意図のもとに遂行された行為は、すでに未来が見えている状態での選択なのであって、単純に過去に戻って選択した、というわけではなくなってしまうのだ。

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2012年4月17日 (火)

仮想牢獄・仮想地獄

   死刑が廃止になると、懲役300年という判決が出るかもしれないが、囚人が実際にそれだけ生きるわけはないし、長期の牢獄生活にはコストがかかりすぎる。そこで、仮想牢獄で300年刑期を務めるという刑罰はどうだろう。そのうんざり感、絶望感というものを、仮想牢獄で味わうことは可能だろうか。シシュポスの神話のように、長い坂道で岩を転がし、頂上に着いたと思った瞬間に最初からやりなおさなければならなかったり、穴を掘ってまた埋めるといった無益な強制労働をしてもらうのである。もっと重大な罪を犯した者には、仮想地獄を味わってもらう。仮想といっても、本当に痛みや熱さを感じるが、それによって死ぬことも叶わぬのである。コストがかかるので、1カ月ぐらいで300年を経験させるというのは可能だろうか。もしバーチャルな300年を経験した者が1カ月で釈放されるとしたら、遺族は納得できるだろうか。
   「300年間冷凍保存で眠り続けていた」という状況では、本人は時間の経過を経験できないので、300年の刑期を務め上げたとは言えないだろう。たとえ1カ月でも「実際に」300年経過した感があれば、目的は達せられたことにならないだろうか。
   罪の重さを時間で計測する、つまり、懲役5年、10年・・・という方法は理にかなったものだろうか。たとえば、膝の上に載せる重石を1枚、2枚と増加させることと、どう違うのだろう。地獄の場合は、痛さや熱さがその基準となるのだろうか? 痛いのも嫌だが、私の場合は「恥をかく」ということが非常にこたえる。「恥かき地獄」のようなものは考案できないだろうか。

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2012年4月16日 (月)

日本式人民服

  日本人はスーツ姿があまりに合わないと言われる。アフガニスタンのカルザイ大統領のように民族衣装がかっこいいというケースもあるが、現代の日本人が着物を堂々と着こなすのは難しい。日本の指導者も金正恩のような人民服を着たらどうだろう。腹が出ているのを隠してくれるのではないだろうか。野田首相は意外と人民服が似合いそうである。中国や北朝鮮の真似もくやしいので、日本オリジナルの、羽田孜元首相推奨の省エネルックはどうだろう。一人二人だとかっこわるいが、国会議員の制服として制定したらどうだろう。制服にしてくれたら議員も着ざるを得ないだろう。野田首相は省エネルックも似合いそうだ。省エネルックなら北朝鮮の人民服のように手をふるときに楽そうだし。

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2012年4月15日 (日)

心の塹壕

  トルーマン大統領は、戦時下の大統領であることから生まれるストレスと緊張状態を歴代の大統領よりも上手に耐え抜いた。問題が山積していたにもかかわらず、大統領は職務のために老け込んだり、活力を失うことはなかった。新聞記者が「どうやってご自身を管理されているのでしょうか? 」と尋ねたところ、トルーマンは「私には心に塹壕があるんだよ」と答えた。兵士が身を守るために塹壕を掘っておくように、彼も自分の心に塹壕を用意して何にも煩わされることのない時間を過ごすようにしているのだ、と説明した。

『アイデア・バイブル 創造性を解き放つ38の発想法』
マイケル・マハルコ著 ナビゲーター 加藤晶治 訳 小澤奈美恵 塩谷幸子
ダイヤモンド社

  批判の矢面に立たされている人、死にたいと思っている人は参考になるのではないだろうか。われわれを取り巻く現実は、「私を非難する現実」ばかりではないのだ。殻に閉じこもるイメージだと、そこから抜け出すのが一苦労であるが、塹壕のイメージならば、敵が銃を撃ってこないときは顔を出して様子をうかがうことができる。塹壕がイメージできなければ、盾のイメージでもよいと思う。柔道でもボクシングでもそうだが、まず防御する技術を身につければ、深刻なダメージを受けずに済むのだと思う。

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2012年4月14日 (土)

金正恩は人民服の下に何を着ているのか?

  片手を挙げて民衆の歓声に応えるとき、素手が肘近くまで見える。ということは、少なくとも長袖を着ているわけではない。金正日はジャンパーのようなものを好んでいたが、人民服を着た写真では、やはり袖からアンダーシャツが見えない。手を挙げた時にシャツが見えるのは格好よくないからだろうか。実際にやってみるとわかるが、ワイシャツの上に背広を着てボタンもかけると、手を挙げづらい。金正恩や金正日は頻繁に手を挙げるので、シャツを着ないことを選択しているのではないだろうか。ヒトラーの場合はシャツを着ているが、「ジーク・ハイル」のポーズでは肘をピンと伸ばしているようだ。(部下がしゃっちょこばってピンと手を挙げたとき、肘を曲げて軽く返答する場合もあるが)。金正恩が厚手のコートを着て手を挙げている写真もあるが、やはり下に長袖は着ていない。寒さより、手を挙げるということがポイントなのではないだろうか。「それが何か? 」と言われると困るが。

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2012年4月13日 (金)

ローラは面接で合格するか

  ローラはどんな大物タレントを相手にしても敬語を使わないが、そのことを不快に感じる人は少ないだろう。別に他人を馬鹿にしているわけではない、ということがよくわかるからである。普段からあの調子らしいが、テレビ局入りするときは「おはようございまーす」などと芸能人風の挨拶をするのだろうか。
  たとえばファーストフードのアルバイトなら、マニュアル通りの敬語やお辞儀をするより、彼女の笑顔とOKサインの方が好感度が高そうである。ただ、彼女が30歳近くなってもあの調子だとウンザリされるかもしれない。敬語や礼儀は、ローラのような天然の笑顔ができない人向けに開発されたマニュアルなのではないだろうか?

  女性が手を前で握って、肘を張ってお辞儀をする姿に違和感を感じる。いつからあんなふうになってしまったのだろう。小笠原流などの伝統的な作法からすると、奇妙なお辞儀のようである。新人が着るリクルートスーツはいつから黒一色になってしまったのだろう? 旅行社の添乗員の女性も皆黒スーツを着ているのだが、おそろいのジャケットでも着させた方がいいのではないだろうか。ずっと黒スーツ姿だと、何か汗臭さが染み付いていそうなイメージである。相手に与える好感度がポイントなわけだから、言葉も服飾もあまりマニュアル化しない方がいいのではないだろうか。

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2012年4月12日 (木)

報復攻撃手段

  核ミサイルを発射する国に先制攻撃をすることは今の日本国憲法では難しいが、「もし一発でも日本に着弾したらどうなるかわかってるだろうな」という報復攻撃をする余地はないだろうか。たとえば日本が壊滅状態になっても生き残った潜水艦からの攻撃をしかけるのである。それとも、潔く、文句も言わずに絶滅していくべきなのか。こういう文脈だと、日本も核武装をし、原子力潜水艦を保有すべきだという意見が強くなりがちであるが、核武装もせず、原子力潜水艦も持たずに報復する方法は全くないものだろうか。
  アメリカ大統領が外遊するときは随行員に核兵器のボタンの入ったアタッシュケースを持ち歩かせたり、エアフォース1またはエアフォース2に搭乗して、報復核攻撃を指令するようだが、日本の首相はどう行動するのだろう。もし報復攻撃が絶対できないとすると、地下シェルターを完備しておかなければならない。PAC3を首都圏に配備したというが、たとえば天皇家が入るような地下シェルターはあるのか? あるいは日本のどこかに松代大本営のようなものがあるのか? ボコボコにされても「今日はこのくらいにしといたるわ」と降参しない池乃めだかのような作戦はどうだろう。無抵抗不服従作戦である。

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2012年4月11日 (水)

ロリーポップ

  ジョージ・スミスは1900年代はじめに棒つきキャンデーを開発した。競争は熾烈で、彼は他社のキャンデーと差別化するためのアイデアを出そうと躍起になっていた。ある日、休息を取ろうと出かけた競馬場でかなりの金額をある馬に賭け、勝った。馬の名前は「ロリー・ポップ」スミスは「ロリー・ポップ」と名づけることで、自社のキャンデーを歴史に残すことになった。

『アイデア・バイブル』マイケル・マハルコ

ということらしい。wikipediaでは

  語源は、lolliが舌、popがオノマトペとされる。ロマ語で赤いりんごという意味のloli phabaだという説もある。

  とある。音の響きがかわいらしいので、商品名や企業名に用いられているようだが、馬の名前の「ロリー・ホップ」はこのような意味をふまえたものだったのだろうか?
  ロリポップレディーは、イギリスの緑のおばさんだという。道路標識が大きなロリポップに見えるからだそうだ。

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2012年4月10日 (火)

出来事のルート

   小学校のグラウンドにできたでっかい水たまりから、長靴を引き摺って地面を掘り返し、水路をつくる遊びをやったことがあると思う。水路の経路は任意であるが、その水路を流れる水は最初の「水路工事」のルートに従う。時間の流れのイメージを考えているのである。
   線路を敷設するイメージでもよい。ルートの変更がきくのは工事をしている最中までであって、列車の運行が開始されれば、ルートの変更は一切きかない。つまり、ルートは決定されている。最先端で工事をしている者にとって未来は非決定論的であるが、そのルートをなぞる者(列車内の乗客)には未来は決定されていることになる。乗客にとっての未来とは、不確定な何かではなく、前方にあるはずの、まだ通過していない、決定された線路や駅である。
   この世界を創造した神は、長靴を引き摺る子供や、最先端の鉄道工事のように、選択の自由があるが、一度決定されたルートをたどるわれわれには選択の自由はない、つまり決定論が適用される。未来を無理やり変更しようとしても、何百キロと続く線路全部を変更することはできない。無理に変更すると、列車は脱線してしまう。
   過去についてはどうだろう。タイムマシンで過去に行き、一度決定された過去を改変することは可能だろうか。バタフライ・エフェクトのように、ほんのちょっとの違いで、その後の出来事は大きく変わってしまうのだろうか? たとえば、列車がA、B、C、D、E、F、Gという地点を経過してきたとしよう。つまり、線路がそのような経路になっているわけだ。現在G地点にいるとして、もしD地点を改変したら、その後のルートは大きく変わるだろうか? 線路は地面にしっかり固定されているので、因果律がおかしなことになるかもしれないが、結局のところ現在のG地点に至ることになるのではないだろうか? タイムトラベラーがDを改変しても、そこが破壊されるだけで、歴史の流れには影響を与えない、という決定論である。テロリストが線路の過ぎ去った地点を爆破しても、すでにそこを通過している列車には何の影響も与えないのだ。

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2012年4月 9日 (月)

野田氏は首相になって人生の目的を達成したのか?

   家庭教師や都市ガスの点検員等、様々な仕事の経験を経て、1987年(昭和62年)に千葉県議会議員選挙に千葉県内一の激戦区である船橋市から立候補した。選挙資金はカンパによる500万円、運動員は20代のボランティア約50人だけであったにもかかわらず、「金権千葉の政治風土を変えよう」「路地裏の政治」と毎日朝夕、駅前で訴え、下馬評を覆し当選した。千葉県議は2期務めた。<ウィキペディア>

   という野田氏は、もちろん最後は首相に昇り詰めることを夢見ていたことだろうが、それが実現した今、「ああ、目的を達成できて、ぼくの人生は充実したものになったなあ」などと思っているのだろうか。鳩山氏や菅氏はどうなのだろうか。ブーイングの嵐だったが、一応最高の栄誉を手に入れたではないか。鳩山氏はひょっとして、それだけでは飽き足らずにノーベル平和賞でもねらっているのではないか? 

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2012年4月 8日 (日)

座布団十枚

  笑点の大喜利は厳密に言えばゲームではない。座布団をもらうかどうかは歌丸さんの気分次第で、明確なルールがあるとは言い難い。歌丸さんをおだてる答を出しても、座布団をもらえる場合もあるし、もらえない場合もある。ちょっといいことを言うと「きれい」と評価されて座布団をもらえることもあるが、そういう場合、大抵は客にウケる答ではない。賞品はもらってもそれほど嬉しいものではなく、出演者は座布団十枚を目指すものの、本気で賞品をもらいたがっているわけではないようだ。競争社会や格差社会では、本気で座布団十枚を獲得することを目指しているように見えるが、よく考えると、その報酬は誰もが羨むものであるとは限らない。出演者の本当の戦いは、客や視聴者にウケる答を出すことにある。面白い芸人だと見られることに成功すれば、今後のテレビ出演の機会も増えるはずである。企業活動は笑点的ではないかもしれないが、人生ゲームは笑点的で構わないのではないだろうか? 誰が勝者というわけでもないのだ。 

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2012年4月 7日 (土)

日本列島と世界地図

   日本列島は世界地図と対応しているという説がある。九州=アフリカ、四国=オーストラリア、本州=ユーラシア大陸、北海道=北米、淡路島=南米と対応している、という主張のようだ。そう見えるかどうかは人によって違うかもしれないが、とにかく余すことなく世界地図と対応させ、対応した地域を応援することにしたらどうだろうか。たとえば九州はアフリカの発展を援助するのである。「何でそんなことを? 」という疑問は当然あるだろうが、理由なんてどうでもいい。「何もすることがない」「何をしていいかわからない」などと悩んでいても意味はないのだから、とにかくこじつけでも何でもいいから、誰かのために援助するという目的をつくってしまえ、というわけである。対応している地域の人は宿泊費が半額だとか、留学生には奨学金を出すといった特典を設けてもよい。

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2012年4月 6日 (金)

サボリの克服

  問題は、生産性を高めるのに貢献している今日の技術進歩が先延ばしのサボリ行為を助長する働きもしていることだ。なにしろわたしたちの多くが仕事で使っているいちばんのツール(インターネットに接続されているコンピュータ」は、eメールをチェックしようか、チャットに参加しようかと考えて仕事をサボりたくなる最大の誘惑源でもある。仕事を抱えていても、何百ものウェブサイトが奏でるセイレーンの誘惑の歌声は耳を捉えて放さない。だから現代の「知識労働者」は、当人が日夜仕事に励んでいると言っていても、その時間のすべてを仕事に費やしているとは限らない。

ダニエル・アクスト『なぜ意志の力はあてにならないのか』吉田利子訳 NTT出版

  すぐ手の届くところに「快楽」や「便利」があると集中ができない。図書館で集中できるのは、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、テレビを見たりできないからだ。映画館では周囲が暗いので、とにかく映画を見るしかない。パソコンで仕事をするなら、余分なソフトをアンインストールすべきだ。私の文章入力用の古いノートパソコンは、いらない機能をどんどん削って、文章を入力するしかやることがない。インターネットにも接続できないし、ゲームも全て削除している。おかげで、サクサクと動いてくれるし、不具合が生じることもない。ケータイやパソコンで「あれもできます、これもできます」という方向での進化は考え直す時期にきているのではないだろうか。

  寺、無人島、過疎の村、宿直室といった場は、「何も無い」という点で集中力を高めるのに適している。さぼりがちな人間には強制力が有効であるから、部屋の鍵が内側からは開かない牢獄のような部屋で仕事をしたらどうだろう。志願囚人である。

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2012年4月 5日 (木)

ハックルベリーフィンの冒険

   現代では黒人に対する軽蔑的表現とされる「ニガー」という語の200回以上の頻繁な使用から、本書全体に人種差別主義が含まれていると主張する団体の要請により、本書の圧倒的な反人種差別的プロットを支持する主張にもかかわらず、学校放送から取り除かれる。
2011年現在のアメリカでは、オリジナル版に忠実なヴァージョンと、差別用語などを削除あるいは別の用語に置き換えたヴァージョンの両方が出版されている。
1955年、CBS放送が本作に基づくテレビ向け映画を製作した際、論争回避のため、奴隷制に一切言及せず、ジム役を黒人以外の俳優に演じさせた。
<wikipedia>

   『ハックルベリー・フィンの冒険』を差別語を使用しているからと言って物語自体が差別的だと批判する人は、一体、何を読んでいるのだろうか? ハックは「黒人のジムといっしょに逃亡することは、他人の所有物であるジムを奪うという罪を犯すことになる」と悩みつつも、あえてジムを逃がすところが感動のポイントであり、人種差別の愚かさを描き出している。もし「ニガー」を「アフロ・アメリカン」などと言い換えていたら、当時どれだけ彼らが迫害されていたか、ということが表現できないではないか。それとも「ニガー」という言葉をこの世から抹殺したいのだろうか。『ハックルベリー・フィンの冒険』は大変良質な文学であるとずっと思い続けていたので、このような扱いを受けているのは納得いかない。部落差別問題における「寝た子を起こすな」論に通じる考え方なのだろうか。

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2012年4月 4日 (水)

ボクシングのトランクスのスポンサー

  WBA世界スーパーフライ級王座統一戦の清水智信のトランクスにはスポンサーの広告がいくつもついていた。TOTO、旅キャピタル、ミズノ、聖学院大学、トーエル、三田、九州じゃんがら、東京農大、ソリッド、…動きが激しいのでなかなか読みとれないが、腰のTOTOや東京農大、聖学院大学はわかりやすかった。
  WBA世界バンタム級タイトルマッチ亀田興毅のトランクスには居酒屋HANZO神田店OPEN、CORE21、花検、本田ヒルズタワークリニック、STONE MARKET、マダムシンコ、BENTOHOUSE、ゆきさき・・・腹についている文字がどうしても読めない(読めなくてイライラする)・・・GAGA MILANOだ。このように余分なところに注意を集中させていたので、試合内容が全く頭に入っていない。客席の最前列にはNIKKO、マダムシンコが交互に並んでいる。

  ロッキーのスポンサーとなったのは、エイドリアンの兄の勤める精肉工場だったが、ガウンに広告が入っていたような気がする。スポーツ選手でも何でもない人の背広に広告を貼って、広告収入が入ったら面白い。商店名の入った前掛けが流行ったりしているので、全く馬鹿げているとは思わない。車に「水曜どうでしょう」のステッカーを貼っている人がいるが、どういう意図なのかがよくわからない。

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2012年4月 3日 (火)

コントロールできない思考

  レフ・トルストイが子どもの頃、尊敬する兄のニコレンカにシロクマのことを考えなくなるまで部屋の隅に立っていられるか、と言われた。幼いトルストイは挑戦を受けて立ったが、後に書いているように、どうしてもシロクマさんを頭から「追い出すことができなかった」。
『なぜ意志の力はあてにならないのか 自己コントロールの文化史』
ダニエル・アクスト  吉田利子訳 NTT出版

  力士が優勝や昇進を意識しだすと、ガチガチになってとたんに調子をくずす。「優勝なんか考えていない」「平常心でのぞむ」と表明すること自体、優勝を意識していることになる。何かに夢中になっているときは、「何かに夢中になっている私」などというものは念頭にないが、自分は不幸なのではないか? 自分は醜いのではないか? などと自分に注意を集中すると、落ち込む原因となることが多い。家庭教育や学校教育では「反省しなさい」と言われる機会が非常に多い。たしかに社会的常識を身につけるためにはそういう躾が大切だろうが、過度に自分に注意を向ける癖をつけると、物事を達成しにくくなるのではないだろうか?

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2012年4月 2日 (月)

柔道の団体戦

   柔道の団体戦では先鋒、次鋒、中堅、副将、大将が闘う。オリンピックでは格闘技の団体戦は採用されないが、「引き分けに持ち込む」など、いろいろな作戦を考えるのも楽しいものである。技量に差がある相手にどう挑戦するか、ということは大切な経験で、中学生の大会では白帯が黒帯を倒すのも一つの醍醐味である。授業では、立ち技が危なっかしくてやらせられない生徒は、寝技のみの試合を組み入れたりすればチームとして成立するのではないだろうか。柔道の重鎮からは怒られるだろうが、逃げ回ってもよいというルールも採用したらどうだろう。実践では、強い相手からどう逃れるか、とか、時間稼ぎをするということは大変重要である。たとえば先鋒は腕相撲、次鋒はケンケン相撲、中堅は寝技のみの柔道、副将は逃げ回ってもよい柔道、大将はオーソドックスな柔道、という具合に試合を組むことにする。明らかに力の差がある場合は、2対1という勝負も考えられる。学校に入ってきた不審者を複数で制圧するということも必要になってくる。特に学校の先生は、そのような技を身につけるべきではないだろうか。

※相手をビビらせるために、ゴム製の「つけギョーザ耳」を開発したらどうだろう。

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2012年4月 1日 (日)

大外刈り禁止

   静岡県教育委員会は武道が必修化されるに当たって柔道の「大外刈り」を禁止し、投げ技を使った試合は行わない、などとする安全指導指針をまとめた。大外刈りは比較的かけやすいが、大きなダメージを与えることができる。実戦なら、柔道着よりタイトな上着を着た相手には技をかけやすく、畳ではなくコンクリートの上で受け身をとらせないように投げれば重傷を負わせることができる。プロテクターをつければ打撃系の格闘技の威力は半減するが、プロテクターをつけようが、投げてしまえば致命傷を負わせることもできる。さらに関節技や絞め技を加えれば、柔道は相当ハードな格闘技であると言える。だから必修化に賛成だ、反対だ、という意見が特にあるわけではないが、敵を制圧するには非常に強力な競技である、ということは自覚しておくべきだ。一つの案として、必修化するなら「柔道」ではなく、「受け身」という授業にするのはどうだろう。柔道場ではひたすら受け身ばかりやらせ、教室では安全教育に特化するのである。受け身をマスターすれば、他のあらゆるスポーツで応用がきき、怪我を減らすことにつながる。それならばエホバの証人も文句は言わないだろう。

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2012年3月31日 (土)

倍速にしてみる

   日本のスーパーコンピューター「京」は1秒間に1京回(1京は1兆の1万倍)を超える計算処理能力を誇り、世界1なのだという。人間でも頭の回転の速い人が尊敬されるわけだが、対話の場合はある程度思考のスピードがそろっていないと噛みあわない。ゆっくり喋りすぎるのも相手をイライラさせてしまう。読書はどうだろう。試験やビジネスなら速読が好ましいが、詩の速読はどうだろう? 

   次の映像や音声を倍速で再生した場合、面白いかどうかチェックしてみよう

1)倍速の歌
2)倍速の演劇
3)倍速のAV
4)倍速の恋愛
5)倍速のサッカー
6)倍速の落語
7)倍速の説教
8)倍速の授業
9)倍速で育つ子供
10)倍速の人生

   放送大学の講義を倍速で聴いたことがあるが、特に問題はなかったようだ。面白い事を言わない先生の、テキスト通りの講義は早く終わった方が学生のためだろう。 
   社民党の照屋寛徳衆議院議員は討論番組でみる限り、非常にゆっくり喋る。脳梗塞の影響もあるらしいが、他の出席者がマシンガントークなので、何だかイライラするが、昔はこれぐらいが標準のスピードだったのかもしれない。ゆっくり喋る人に対してイラつくというのは私の修行が足りないのかもしれない。

   1945年7月24日の生まれなので齢63歳。昨日は、脳梗塞を発症して、無事に生還できた日から数えて、満4年目であった。だから生年63歳、脳梗塞から生還4歳の記念すべき日だった。<照屋氏のブログより>

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2012年3月30日 (金)

私が自我や心を持っているということを伝える方法はあるか

  私はゾンビやロボットではなくて、自我や心を持っているのだ、ということをどうしたら他人に知らせることができるだろう。たとえば、私は本当に痛みを感じているのだ、ということはどうだ。いくら言葉で主張しても、「芝居がうまいね」と言う相手を説得することはできない。絵を描いたり、写真を撮ったり、詩を書いたり、歌を歌ったりする場合はどうだろう。「私はこれを美しいと思う。君はどう? 」という投げかけができたら、「ああ、この人には内的経験があるのだ」とわかってもらえるのだろうか。「大人のぬり絵」ではだめだろうか。
  「プロの棋士と対戦して負かしてしまうコンピュータは知能を持っている」と言う人もいるだろうが、「いや、プログラムにすぎないのだ」と否定する人もいるだろう。自我や心も、さもそれがあるように振舞ったり、作品を生み出すプログラムをつくることはできるかもしれないが、「ああ、このコンピュータは心を持っている」と感じる人もいる一方、「いや、プログラムにすぎないのだ」と否定する人もいるだろう。受け取る側の信念の問題だろうか?

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2012年3月29日 (木)

人物評価のツボ

   いま、グーグルを筆頭に各種のインターネットサービスは、人々の特性や過去の検索・購買・メールなどの履歴にあわせて提供内容を変えつつある。おかげで検索結果やお奨め商品はグッと精度があがり、望むものがすぐ得られるようになる。嫌なもの、興味のないものは目にせずにすむ。すばらしい……のだが、本書はなんと、それがよくないことだと主張する。客に望まないものを見せろ、と。欲しくないものを無理矢理おしつけろ、と。
『閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義』イーライ・パリサー 井口耕二訳 早川書房
週刊文春 文春図書館「今週の必読」

   昨日の「私と、私でないものをふりわける操作が自我である」という説を採用するなら、グーグルが提供する私の好みは、私の人格の要約となるかもしれない。就職試験でインターネットの検索記録を提出させれば、受験生がどんな人物かがよくわかるのか? いや、それだけでは全く不十分だ。ストレスがたまったときにどういう行動を起こすのか、困っている人を放置するのか、援助するのか、他人が見ていないところでも努力するか、会社が不正行為をしたときに告発するか…といった点が人物評価のツボになるはずだ。さらに、人間はときとして、今までそんな人間だと自分でも思っていなかったのに、重要な行動をとる場合がある。チャラチャラした自己中心的な奴と思われていたのに、ボランティア活動で貢献する人もいる。10分や20分の面接ではそういうことは推し量ることはできないのだ。

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2012年3月28日 (水)

私と、私でないものをふりわける操作が自我である。

  自分の書いた文章のカードと、他人の書いた文章のカードをシャッフルして、自分の書いた文章だけを選ぶことを考える。その場合、私は自分の記憶をたよりにしているのだろうか。それとも、「私ならこう書くに違いない」という確信のようなものが基準になるのだろうか。
写真の場合はどうだろう。自分が撮影した写真と他人が撮影した写真を区別することができるだろうか。自分の描いた絵はどうか。料理はどうか。自分の服はどうか。複数の人間がミスター・ドーナツのドーナツをトレイにとり、そのトレイを本人が見ていない状況でシャッフルしたとしたら、「あ、これは私の選んだドーナツ群だ」ということがわかるものだろうか。その根拠は記憶ではなくて、「私なら絶対エンゼルショコラを食べたりしない」という嗜好が基本になっているのだ。
  このように、私と私でないものをふりわける操作をするものを自我と考えるなら、「あなたの自我も私の自我も結局同じですよね」ということにはならない。「どうしてそんなことにこだわるのか、私には理解できない」というケースでは、「私も彼と同じ境遇で育ったならばそうなっていたかもしれない」などと考えるべきではなくて、端的に「私と彼は違う」ということで済んでしまうのだ。

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2012年3月27日 (火)

北朝鮮の人は韓流を好むだろうか

  指導者たちは多分「堕落した文化だ」「軟弱だ」と言うかもしれないが、もし誰にも監視されない状態で見れば、北朝鮮の人も韓流ドラマにハマるのだろうか? 金正恩はジャッキー・チェンが好きだと言うが、一般庶民はDVDを見ることは可能だろうか? 子供たちはドラえもんを知っているのだろうか?

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2012年3月26日 (月)

核兵器崇拝

『続猿の惑星』(1970)に登場する未来の人類である地底人は、猿たちの軍事力に対抗するために超能力で幻覚や頭痛を引き起こしたりするが、決定力はない。彼らが最後の頼みの綱とするのは一発で地球を破壊するほどの威力を持つコバルト爆弾であった。地底人はコバルト爆弾を神とあがめて礼拝をするのだ。北朝鮮の核兵器に対する思い入れを連想する。彼らの技術ではピンポイントで大陸間弾道弾を操作することは難しいのかもしれないが、「死なばもろとも」という覚悟を持ったとしたら、軍事力ではかなわない相手とも対抗できるのではないだろうか? たとえば原発破壊のために自爆テロをやるとか。

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2012年3月25日 (日)

屈辱感が元気を与える

  人によって違うだろうが、私の場合、屈辱感によってやる気が出てくるタイプのようだ。高慢な態度をとる相手や、理不尽な扱いをする組織に対して「見返してやる」という気持ちが出てくる。この1年、「癒し」や「感動」によって「元気をもらいました」というセリフをマスコミを通じて何度も聞いたのだが、確かにそういう人もいるだろうが、屈辱感によっても「元気をもらいました」という心理状態になる場合もある。「やさしさ」や「おもいやり」が絆のキーワードとなっているようだが、共通の敵に対する憎しみもまた絆になりうるのではないか? テロリストたちも強い絆を持っているようだが、それは決して「やさしさ」や「おもいやり」ではないのだ。「何やってんだ」「いいかげんにしてくれ」という思いを現政権や大企業のトップに対して抱く人も多いと思うが、それが一つのエネルギーとなる可能性もある。国民のほとんどが幸福感を持っている国もあるそうだが、本当にそれは理想的なことなんだろうか? たとえば大国が圧力をかけてきたときに、彼らはどう対処するのだろう。

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2012年3月24日 (土)

商標権

  日の丸を商標登録できるだろうか。

  商標法第四条 次に掲げる商標については、前条の規定にかかわらず、商標登録を受けることができない。
一 国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標

  ということで、無理のようだが、日の丸のデザインを買い取ろうとした国があるという。

  安津素彦の著作『国旗の歴史』に、明治時代にイギリスまたはフランス、オランダが日の丸の意匠を買い取ろうとしたという記述がある。また、この日の丸買収の話は、伊本俊二の著作『国旗 日の丸』では、「1874年(明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、寺島宗則外務卿を相手に交渉した」としている。ただしこの説は吹浦忠正が著書『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」と結論づけている。<ウィキペディア>

  日の丸や菊花紋章は譲れないだろうが、たとえばJALの昔の「鶴丸」のマークを買いたい人はいるかもしれない。もしフランスが日の丸を自国の国旗にしていたら、という空想をすると面白い。日の丸と三色旗を交換して、日本の国旗がトリコロールだったりするわけだ。志賀直哉は日本語の公用語をフランス語にしろと主張したが、もしそうなったら、日本はフランスになってしまう。
  家紋のデザインは優れたものが多いので、外国人に家紋をデザインする商売があったらウケるかもしれない。ただし、民主党のマークのデザインはイケてない。水に映ったフニャフニャした太陽は何を象徴しているんだろうか。もしあのマークが国旗だったら日本人であることをやめたくなるかもしれない。

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2012年3月23日 (金)

商標登録

   ルイ・ヴィトンのモノグラムは日本の家紋を参考にしたというが、実在する家紋をそのまま外国企業がデザインとして使用することは可能なのだろうか。たとえば武田菱や六文銭や三葉葵で構成したデザインである。家紋を商標登録しておいたら、クレームをつけられるだろうか。実際に商標登録してある家紋もあるという。
   たとえばマツモトキヨシ、ジュリアン・アサンジという名前は商標登録してあるが、商品やサービスの標識としてでなければ自由に使用できるようだ。もっと厳しく判断して、誰かが登録した名前を自分の子供につけることはできない、などという世界だったら、キャリーパミュパミュといった具合に子供の名前はどんどん奇妙に、そして長くなっていくだろう。

   大相撲を解雇された露鵬の本名はボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソビッチだそうだ。ナイジェリアの大統領はオルシェグン・オバサンジョ。スターリンの本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ・・・
   ためしにペットの名前も登録制にして、絶対重複を認めないことにしたら、ポチとかタマとかピーちゃんなどと気軽に命名はできなくなる。

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2012年3月22日 (木)

バックシート・ドライバー

  後部座席から運転手にあれこれ運転の指示を出す人。
  運転手が一番ムカつくパターンだが、車の運転に限らず、口うるさくあれこれ指図されると「何で自分がこんなことをやらなければならないのか、そんなに言うなら自分でやれよ」という不満が沸々としてくるものである。多くのお説教はバックシート・ドライバー的な雰囲気を持っていて、なかなか素直に忠告を聞く気にはならない。作業中の人の自由度を保ちつつ、好ましい方向に指導する有効な方法というものがあるはずだ。たとえば伝統的な技術の伝承では、親方は手取り足取り教えてくれず、掃除や、退屈な単純作業をさせるだけだったりするが、バックシート・ドライバーになることを避けて、自主的に取り組む態度を育てているのかもしれない。
  絵を描いたり、字を書こうというときに、「いやそうじゃなくて」などと教師役の人が手を添えたりすると、急にヘナヘナと力が抜けてしまうことがある。たとえ間違ったり、ヘマをしたりする可能性があるとしても、自分の行為の主体でありたいという欲求をわれわれは持っているのかもしれない。

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2012年3月21日 (水)

ゾンビ戦争

   ゾンビは見た目が気持ち悪いが、あまり怖い存在ではない。だって、何も考えていないのだから、誰かを恨んだり、呪ったりするわけではない。もし彼らが愛とか絆について思いをはせるような生き物なら、殺してしまうことには躊躇をおぼえるはずだが、「なーんにも考えてない」のだとしたら、機関銃で派手に撃ち殺したって構わないという気になってくる。
   もしマインドコントロールによって、相手の心情などはお構いなしという人間がいたら、それは一種のゾンビだということになる。だって「なーんにも考えてない」のだから。だから「なーんにも考えてない」兵士が「なーんにも考えてない」敵の兵士と対戦する「ゾンビ戦争」なら、戦争は残忍なものではなくなるのだろう。
   心をもたないはずの人形やロボットに心を見出し、慰めになるという事例もあるが、本来心を持っているはずの相手の心を認めない人間が実際に増殖しているのではないかと危惧する。罪もない人々に機関銃を掃射したり、高齢者の金を騙し取ったり、子供を金儲けのために売買する輩は、相手をゾンビと見なす心情の持ち主ではないだろうか。

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2012年3月20日 (火)

敵兵に憎しみを持つことは戦闘では必要なのか?

  アフガニスタン南部カンダハル州で地元住民16人を射殺し、米中西部カンザス州の基地内の施設に収容されている米陸軍2等軍曹ロバート・ベイルズ容疑者(38)が「事件を覚えていない」と、弁護人が19日、同容疑者と初めて面会した後に明らかにした。19日ロイター

  米電子新聞「ザ・デーリー」は19日、イラクのアブグレイブ刑務所での収容者虐待で中心的役割を果たしたリンディー・イングランド元上等兵のインタビューを掲載した。同元上等兵は収容者虐待に罪悪感はないと述べた。(時事通信)

  相手が鬼畜だと思えるなら、思い切り殺戮できるし、戦闘終了後も深刻な心の傷を負うことはない。ベトナム戦争時、米軍は実際に相手を殺す発砲率を高めるために、トマトジュースを仕込んだキャベツを射撃訓練に使用し、気弱な兵士を殺人マシーンに洗脳していった。このような洗脳の結果、復員後の兵士のPTSDが深刻になってしまったという。兵士に抑制がきかない状態では作戦行動が難しくなる。憎悪の対象は必ずしも敵国の兵士に向けられるとは限らないし、憎悪の対象が自分自身に向けられる危険性もある。敵に塩を贈るとか、降伏した敵兵に礼儀をもって接するとか、武道で勝負がついた後でお互いに礼をするというのは、博愛主義とか礼儀の問題ではなく、完全な殺人マシーンになってしまうのを防ぐ目的があるのではないか? 現代の戦闘で「フェアプレイ」や「騎士道精神」など甘いと言われてしまうかもしれないが、理性をなくした戦闘で勝利しても意味はないのだ。B29が日本上空を飛行していたときに、地上で少年たちが野球をしている情景を見て乗組員たちは黙り込んでしまった、という報告を読んだことがある。たとえば少年兵を何の心の葛藤もなく殺せるようになったら、人間をやめた方がいい。

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2012年3月18日 (日)

結末が変わる小説

  紙媒体ではなくて電子書籍ならば結末が変わる小説が可能かもしれない。別にファンタジーでなくてもよい。たとえば栞をどこにはさむか、という読者の行為で結末が変わってしまうとか、1回目読んだ時と2回目読んだ時ではストーリーが違うとか、読む時刻で文体が違うとか、ページを飛ばして先に結末を読んでしまうと文章が消えうせてしまうといった変化である。つまり読み方によって内容が大きく違ってしまい、取扱いに注意しなければならない。別の結末を迎えたかもしれないということは知ることはできず、時間をさかのぼることはできないのだ。読む人によって違うので、文学賞の選考の対象にはならない。図書館などでは、誰かが一度読んだ作品はリセットして新しい人に貸し出さねばならない。読む人はそのことを十分理解して、真剣に読まねばならない。立ち読みや万引きだと作品が大なしになってしまう仕掛けがほどこしてある。(電子書籍に立ち読みや万引きはあり? )
  ネバーエンディングストーリー第二章でバスチアンが再び出会った本は文字がどんどん消えうせ、空虚化していくという設定だったようだが、もう一度見てみないと詳細は思い出せない。電子書籍ならミヒャエル・エンデの「はてしない物語」をどう扱うだろうか。本の世界へ読者が引き込まれるような仕掛けが何かできないだろうか。主人公に「がんばれ」と声をかけると返事をしてくれるような仕掛けなんかどうだろう。

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2012年3月17日 (土)

メソッド技法

   メソッド演技法(メソッドえんぎほう)とは、コンスタンチン・スタニスラフスキーの影響を受けたリー・ストラスバーグらアメリカの演劇陣によって、1940年代にニューヨークの演劇で確立・体系化された演技法・演劇理論である。役柄の内面に注目し、感情を追体験することなどによって、より自然でリアリステックな演技・表現を行うことに特徴がある。
   メソッド演技法では、役作りのために自己の内面を掘り下げるため、役者自身に精神的な負担をかけ、そのため、アルコール中毒や薬物依存などのトラブルを抱えるケースも少なくない。マリリン・モンローやモンゴメリー・クリフトは役作りに専念しすぎるあまり、自身のトラウマを掘り出したがため、情緒不安定となり、以後の役者人生に深刻な影響を及ぼしたと指摘されている。wikipedia

   役者以外では、振り込め詐欺に従事しておられる方にも応用がきくのではないだろうか。最近は高齢者も警戒しているだろうから、より自然な演技が求められるだろう。結婚詐欺に従事しておられる方は演技力は求められるのだろうか? たとえば「結婚詐欺師クヒオ大佐」は米軍特殊部隊のジェットパイロットで父はカメハメハ大王の末裔、母はエリザベス女王の妹の夫のいとこだという設定であるが、これを相手に納得させるテクニックというのは何だろう。「自然な演技」とはまた別の要素がありそうである。日常生活でも、うそ泣きの演技とか、浮気をごまかす演技とか、宿題を出さない理由をでっちあげる演技とか、仮病の演技が求められるかもしれない。仮病の熟練者なら病気になりたいなあと思っただけで本当に熱が出たりするかもしれない。

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2012年3月16日 (金)

エンデュミオン

  セレーネーは羊飼いの少年エンデュミオンに恋をしたという。山中の小高い場所で眠るエンデュミオンを見て、セレーネーは月光を浴びせ、心をこめてキスをしたので、エンデュミオンは永遠に夢を見続けることになった。
『月の文化史』ジュールズ・キャシュフォード 別宮貞徳監訳 片柳佐智子訳 柊風舎

   もし永遠に冷めない夢を見続けるなら、それが夢であるということを判定することはできない。もし永遠に終わらない映画を見続けるなら、それが映画であるということを知ることはできない。もし永遠に天国で暮らすなら、ここが天国であることを実感することはできない。
今私は煉獄のような世界に住み続けている。苦しいだけでなく屈辱的な世界である。早く過ぎ去ることだけが救いだという生活は精神を荒廃させる。

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2012年3月15日 (木)

改造人間

  1から人間をつくりあげるのは時間とコストがかかりすぎるので、すでに一定の業績をあげたり地位のある者を改造して役立てるという方法を考えてみる。東国原氏は一定の知名度+猛勉強により、人生半ばで宮崎県知事になることができたわけだが、もし彼がたけし軍団のタレントでなければそこまでの地位につけたかどうか。金正恩は人造人間19号に似ているというが、彼は周囲の思惑によって改造されてきたのではないだろうか。
  民主党の鳩山氏と菅氏をクソミソにこきおろすのは容易いが、国民に顔を知られているという利点を生かす手段はないものか。政治の世界で復活されると大迷惑だというなら、たとえば菅氏は市民運動ではなく、お遍路を通じて国民の精神的な安定をはかる運動を展開するというのはどうだろう。震災で大きなショックを受けた人々や、一度は自殺を考えた人々とともに、お遍路をするのである。イラ菅と言われた彼がおだやかな表情で「生きるとはどういうことだろう」「なぜ自殺してはいけないか」といったことを語るのである。もし真摯にそうした活動をするならば、彼を見直す人も出てくるはずである。お金持ちの鳩山氏の場合は、思い切ってホームレスの人と同じ生活にチャレンジしてみよう。あるいは政治家をやめて、ハローワークで斡旋された仕事につくことにする。60過ぎた自分にどんな仕事ができるのか、金のない自分に誰が声をかけてくれるか、ということを実感することで、虚栄の人生から離脱して、本当の自分をとりもどすきっかけになるだろう。
  皇太子と雅子妃の場合も、このあたりで一大決心をして、何かテーマを持って活動した方がいいのではないだろうか。そういう自分も他人の批判ばかりしていないで、自分の人生を考え直した方がいいのではないかと思う。このまま屁みたいな人生が続いていくのはやりきれない。

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2012年3月14日 (水)

イディオクラシー

2006年アメリカ映画「26世紀青年」(原題Idiocracy)

  2005年、アメリカ陸軍は極秘裏に人間の冬眠実験を開始する。実験体に選ばれたのは平均的な能力を持った軍人ジョー・バウアーズと売春婦のリタ。1年間の計画だったが、極秘実験の責任者が麻薬不法所持と売春あっせん容疑で逮捕されたため忘れ去られ、二人は500年後の未来に目覚めることになった。そこは知能の低い人間ばかりが繁殖し、賢い者が子供を残さずに、世代を経た結果、平均IQが低下し堕落した社会となっていた。ゴミがひたすら積み上げられ、砂嵐が吹き荒れ、農作物は育たず、水の代わりにスポーツドリンクのゲータレードが供給されていた。周囲から馬鹿にされたり刑務所に収監されたりしながら、元の時代に戻るためにタイムマシンを探すジョーはこの世界の生きている人間の中で一番のインテリであったため、内務長官に任命され、農作物の復活と砂嵐を止めさせられる羽目になる。wikipedia

   田中防衛相の姿を見ると、日本もイディオクラシーに近づいているように思える。民主党が鳩山元首相と菅前首相をそれぞれ外交、新エネルギー政策の党最高顧問に処遇するというのもイディオクラシーだ。「イワンの馬鹿」のイワンは最後にバカの国の王様になるが、この国のルールは手にマメのない者、つまり労働をしないものは食卓につけないというものである。田中氏、鳩山氏、菅氏の手にはマメがあるとは思えない。

   「車が到着する瞬間、突然、濃霧が乗用車の周辺を取り巻いた。ようやく乗用車の扉が開き、雲を踏んで空から降りてくるような金正恩大将の姿を見た隊員らは『天が生んだ将軍』といって感激をした」という講演会の内容に北朝鮮の知識人たちが反発している様子を中央日報日本語版(3月14日)が伝えている。北朝鮮もイディオクラシーなのだろう。

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2012年3月13日 (火)

口元確認

 大阪府立和泉高校(岸和田市)の卒業式で、学校側が君が代斉唱の際に教職員の口元を見て歌っているかどうか確認していたことが13日、分かった。教職員の1人が、中原徹校長に対して歌わなかったことを認めたという。<時事通信3月13日>

  卒業式で君が代は歌うべきだと思うが、口元を確認ということには違和感がある。金正日の葬儀で号泣しない北朝鮮人民は当局にチェックされたというが、それとどこが違うというのだろう。では、一応口は動かしているが、声を出していない、いわゆる口パクの先生はどうなのだろう。口パクは許される? いっこく堂のように、口を全く動かさずに君が代を歌える先生は罰せられるだろうか。口を閉じて君が代を歌ってみたが、意外と簡単に歌えるようだ。同じくいっこく堂のように、一人時間差で歌う場合はどうだろう。口元は君が代だが、歌っているのはパフュームの歌、というのも練習すれば可能かもしれない。君が代をものまねで歌ったらどうだ? ラジオ体操東北弁バージョンというのが話題となったが、君が代方言バージョンはどうなのだろう。
  とにかく、100%の人に強制するものでもないような気がする。君が代は天皇家と結びつけられて語られるが、国歌なのだから、国の象徴でもあるわけだ。もし「国なんか信用できねえ。おれは国のためにこんなひどい目にあったのだ」という人がいたとしたら、「おれは君が代なんか歌わねえからな」という自由というか、勝手を許す余地はあってもいいんじゃないかな。日教組の先生方がそれほどしいたげられているとは思わないけれど。

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2012年3月12日 (月)

のどじまんザ!・ワールド

3月9日の日本テレビ「のどじまんザ!・ワールド」は大変感動的だった。日本人が出場するのどじまんにはほとんど興味が持てないのだが、外国人が完璧な日本語でJPOPを歌う姿には何故だか涙が出てくる。優勝したクリス・ハートの歌声は、プロの歌手でも味わえないような感動がある。一体私はどういうツボで感動しているのかが、よく説明できない。
完璧な日本語の発音を、彼らは動画サイトを見てマスターしたのだろうか。幼児期にその言葉のシャワーを浴びないと外国語を本当にものにはできない、などというのが常識だと思っていたが、何だか違うような気がしてきた。何かをかっこいいと思い、何とか真似したいという気持ちがあれば、外国語は習得できるのではないか? 石川遼がやっている英語教材を昔やったことがあったが、一番苦痛なのは、喋っている内容がどうにもつまらない、ということだった。興味を持つことが一番学習効果が高いのではないかと思う。

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震災記念堂

  関東大震災にあっても市内各地に「記念塔」「慰霊碑」等、官、民、地域の人々の手になるモニュメントが建造された。その過程で、いくつかの競技設計が実施されている。その一例が大正十三年二月、建築専門の出版社洪洋社が実施した「国際謝恩塔」の提案コンペである。震災後に受けた「各友邦」からの「熱情的救援」に対して、「芸術的至上の創作」に依って「真の謝意の表意」を果たそうというものだ。

『あったかもしれない日本』  橋爪紳也 紀伊国屋書店

   結局実現したのは、震災記念堂(現在は東京都慰霊堂)で、東京都墨田区横網の横綱町公園内にある。現代人にはこのようなものを建設しようという発想はないかもしれないが、天皇陛下は3月11日のお言葉で「この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います」と述べられているが、子孫に伝えるには震災記念堂のようなものを建設した方がいいのか? 箱物はムダだと言われてしまいそうだが、たとえば1000年に一度の震災だとすると、1000年後の日本人にも伝える必要がある。1000年後の日本人に、菅首相や東電がどのような対応をしたのかを伝えねばならない。書物や電子媒体では政府に都合よく歴史を改竄されてしまうかもしれない。語り部を育成して口承によって語り継ぐという手段もある。

   ちなみに墨田区横網は「よこあみ」であって「横綱(よこづな)」ではない。

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2012年3月10日 (土)

キャプテン・アメリカ

「キャプテン・アメリカ・ザ・ファースト・アベンジャー」を見た。貧弱な肉体の主人公は血清の力で超人に生まれ変わる。超人といっても、通常の人間の能力が高められたものであって、特殊能力を持っているというわけではない。いや、しいて挙げるなら、高潔な心が特殊能力だろうか。円盤型の盾をいつも持ち歩いているが、確かに正面からの攻撃ははねかえすことができるが、後ろから狙われたらどうするのか。「後ろから狙われることなんかない」という強運を持っているのが特殊能力かもしれない。
バットマンは特殊能力というより、特殊なスーツや自動車や武器を持っているという点が強みである。明らかに特殊能力を持っているのはスパイダーマンとか、超人ハルクとか、ファンタスティック・フォーだろう。「ザ・フライ」のハエ男もまた特殊能力を持つが、ヒーローとは言い難い。「キック・アス」の主人公は情けないほど無力である。ちょっと古くなるが、「フラッシュ・ゴードン」のパロディの「フレッシュ・ゴードン」はポルノだが、おっぱい光線とかチンコドリルという様々な仕掛けがくだらなくて面白い。少し地味だが、チンコロケットは吊り皮につかまらなければならなかったり、主人公のフレッシュ・ゴードンが噛んでいたガムを飛行機になすりつけたりするセコいネタが楽しい。

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2012年3月 9日 (金)

屋外ロボット掃除機

  ロボット掃除機のルンバは室内限定だが、屋外も自動的に清掃してくれるロボットを考えてみる。何で? と言われても困るが。室内と違って段差が多い事や、石・草・ゴミ・などが点在するので、二足歩行や四足歩行が好ましいだろう。植込みの中の落ち葉を掃いたりするので小回りのきく二足歩行がより望ましい。自動車、通行人など、室内より障害物が多い事も考えなければならない。自律式なので、安全性を優先するなら吸い込むよりゆっくり箒で掃くタイプがいいだろう。猫を吸い込んだりしないためである。子供が恐怖感を感じないように、親しみやすい感じで声をかけることも大切である。「おでかけですか? 」とか。ということで、屋外ロボット掃除機はレレレのおじさんタイプとなる。

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2012年3月 8日 (木)

Kに冷却水が必要

  当時、内閣広報室審議官だった下村健一氏は三月四日、ツイッター上で、その同席者とは自分だと明かし、こうつぶやいている。<「うつむいて黙り込むだけ、解決策や再発防止姿勢を全く示さない技術者、科学者、経営者」。一方でノートにはこんな殴り書きも。「Kに冷却水が必要」・・・Kとは菅さんのこと。危機が刻々募る中、技術陣の無様さに、次第に総理のテンションが高じていったのも事実。あそこは優しく彼らの硬直を解いてあげるのがリーダーの務め> 週刊文春3月15日号「管直人 危機管理センターに差し入れた柿ピー」

  イライラしたときの冷却水とは何だろう。「早くしなさい」と子供をどなりつける母親をクールダウンさせるにはどうしたらいいのだろう。会議で誰かをつるし上げようとしている人を穏やかな心にするにはどうしたらいいのだろう。特に指導者の場合は自前の冷却装置がついていてしかるべきである。なでしこジャパンの佐々木監督はサラリーマン経験が長く、NTTで苦情受付係を担当し、たいそう評判が良かったという。高島秀武氏がニッポン放送の「朝ラジ」で言っていたが、朝から何度も取材を受けていた佐々木監督に高島氏がインタビューをすることになった時のこと。多分イライラした応対をするだろう、そうした彼の人間性を浮き彫りにしよう、という高島氏の思惑ははずれ、佐々木監督は丁寧に取材に応じたのだという。彼はサラリーマン経験を通じて、自分の冷却装置の性能を高めたのだと思う。時には屈辱的な思いをしたり、頭を下げて謝罪するという経験も、人間性を高めるためのいい機会ではないだろうか。菅氏は、はたして他人に頭を下げたり、屈辱感を持ったりしたことはあるのかな?

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2012年3月 7日 (水)

UTB(アルティメット・タック・ボール)

  UTBという新しいスポーツがあるそうで、一番の特徴はスタンガンで相手を妨害するという点である。スタンガンは通常の強さの10分の1に設定してあるそうだが、それでも触られるのはいやだ。子供たちにもこの遊びができるようにするために、危険なスタンガンはやめて、ウンコで代用したらどうだろう。アラレちゃんのようにウンコを棒に突き刺して、ボールをとりにきた相手に、近づくとウンコをつけるぞ、と脅すわけである。でも、衛生面でPTAのお叱りを受けるだろう。スタンガンのようにインパクトがある仕掛けは何だろう。

1)ユニフォームを脱がす
2)爆竹を投げる
3)スミや泥を塗る(上級者は油性ペンキ)
4)チェーンデスマッチのように、敵と鎖でつながる
5)二人三脚サッカー
6)ピンポン玉に息を吹きかけてゴール
7)ルンバのようにボールが自走する
8)熱湯をかけ合う
9)ボールを2個使う
10)将棋の駒のように、相手選手をとることができる。

無理やり10個考えてみました。

<参考>モンティパイソンの哲学サッカー

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2012年3月 5日 (月)

不謹慎とは何か

  国歌や国旗や皇室をからかったりするのは不謹慎であるという。自殺対策にアイドルをもじった名称をつけると不謹慎であるという。大地震の直後にCMやお笑い番組を放送するのは不謹慎であるという。尊いもの、深刻なものに対しては慎み深く接しなければならないということだろうか。宗教的なものに対してはどうだろう。自分が信じてもいない神像に唾をはきかけるのは不謹慎だろうか。タリバンがバーミヤンの大仏を爆破したのは不謹慎だろうか。偶像崇拝をすることこそ不謹慎だとタリバンは考えるだろう。「不謹慎」の基準はケースバイケースだろうが、人の大切にしているものを踏みにじる行為は不謹慎であると言えるのではないだろうか。その国がいくら非難に値する行為をしたとしても、国旗を燃やしたり、蔑称でその国民を呼んだりするのは慎み深い行為であるとは言えない。相手のことを考えて、というより、自分の精神を汚す行為であるように思う。
  はたして忌野清志郎の君が代は不謹慎なのだろうか? 君が代の歌詞は祝詞や経典ではないのだから、「神聖なものを汚す」ということではない。人が大切にしているものを踏みにじっているのだろうか。ロックのビートで盛り上げているんじゃないか? われわれはいつも君が代を陰気に歌うが、たまには楽しく歌ったり、ノリノリで歌ったり、裏声で歌ったり、口パクで歌ったりしたらどうだろうか。

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2012年3月 4日 (日)

君が代コンクール

  AKB48が巨人開幕戦で君が代を斉唱することについて、批判があるようだ。歌唱力や「口パク」が問題だとしたら、クラッシック歌手に歌わせればよいのだが、歌唱力があっても地味な歌手では開幕戦というお目出度い場にそぐわない。大相撲の千秋楽では歌手に歌わせるということはなく、観客全員で歌うが、球場の観客は君が代を歌わないのだろうか。そんなこともないだろう。観客の歌唱力に問題があるだろうか? ヘタくそでも全員で一生懸命歌うのが国歌の歌い方であるように思う。問題にすべきは、AKBに歌わせることではなくて、みんなで歌わないことではないだろうか。まあ、こうるさいことを言ってもしかたないので、どうせタレントに歌わせるなら、「君が代コンクール」の勝者に歌わせたらどうだろう。歌唱力だけでは優勝できず、各自工夫をこらしたり、衣装に凝ったりしなければならないのだ。たとえば二部合唱、三部合唱にしたり、振付を考えたり、ジャズやロックにアレンジする。たとえば、忌野清志郎のように。

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2012年3月 3日 (土)

意味不明の話は飽きない

  卒業式の式辞がつまらなくなるのは、無理に偉そうなことを言うからではないかと思う。校長とか来賓という立場ではあまりオチャラけた話はできないだろうが、無理やり上から目線の話をする必要もない。イエス様もお釈迦様も、たくみなたとえ話を用いて、聴衆を納得させているように思える。しかし、それだけのレベルの人は滅多にいない。
  葬式の僧侶の読経や神主の祝詞は何を言っているかよくわからないが、けっこう長時間でも耐えられるのは、意味不明の言葉だからではないかと思う。あまり親しくない人の葬儀の場合、不謹慎かもしれないが、読経中は余分な考え事にふけっていることが多く、退屈という感じはしない。そうか、卒業式の式辞も、無意味に徹することが参加者のためなのではないだろうか。先生が勝手につまらない話を延々とするタイプの授業も、慣れれば耐えられるが、つまらない上に時々指名する先生の場合は耐えがたいことがある。話がつまらない人は余分な工夫などしない方が聴衆のためである。

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2012年3月 2日 (金)

卒業式の式辞コンクール

  卒業式の式辞は大抵つまらない。素人がウケをねらって面白い話をしようとしても、大抵スベる。面白くなくても、卒業生が感極まって泣ける話でもよい。ということで、式辞のレベルアップを目指して、「卒業式式辞コンクール」を開催するのはどうだろう。部門としては、校長の部、PTA会長の部、同窓会長の部、などである。投稿された式辞の動画を審査員が審査するのである。これが盛況だったら今度は「結婚式のスピーチコンクール」を開催するのだ。限りある人生を、つまらない話を聞くことで浪費したくない。

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2012年3月 1日 (木)

映像に登場する人間はゾンビなのか?

  CGでつくられた人間は確かに人間らしい反応をし、痛みを感じたり、悲しんだり、喜んだりするように見えるが、彼らの内部では主観的な意識的体験など何も生じていないという点で、 デイビッド・チャーマーズが提起した「哲学的ゾンビ」と同じである。CGに限らず、映像の俳優も同様である。それは、その俳優が故人かどうか、ということによるのだろうか。たとえば故人の石原裕次郎の映像は哲学的ゾンビだが、まだ生きている渡哲也の若い頃の映像は、「今生きている人間の過去の姿であって、哲学的ゾンビではない」などと区別することはできるだろうか。日本の俳優の知識が全く無い外国人にとっては、石原裕次郎であろうが、渡哲也であろうが、ゾンビみたいなものじゃないか?
  日本で起きた災害の犠牲者に、外国から支援を申し出てくれるのだが、全く会ったこともない、個人も特定できない人に同情をよせることが可能なのは、自分が知らない被害者にも「こころ」があるのだ、という信念があるからだろう。

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2012年2月29日 (水)

起立しない人にスポットライトを当てる

  橋下大阪市長が「君が代起立斉唱条例案」を提出したが、卒業式で全員が起立している状態では起立しない先生が埋没してしまい、せっかくの「起立しない」という行為が目立たない。もしパフォーマンスでそういうことをやっているなら、スポットライトを当ててあげたらどうだろう。信念を持って起立しないのなら、「私が起立しない教師です」とカミングアウトして、保護者にも堂々と見てもらうのである。3月1日は各地で卒業式が行われるが、大阪以外でも「隠れ不起立先生」を発掘して、話題にしたらどうだろうか。在校生に不起立先生の是非をディベートをさせたら、生きた教育になるはずだ。校長は止めると思うが。
 1968年のメキシコ・オリンピックで、男子200mの金メダルと銅メダルをとったアメリカの黒人選手は黒手袋をはめた手を天に突き上げるというパフォーマンスを行った。アメリカの黒人差別に抗議したのである。この結果、2人は選手団から除名され、その後永久追放されたという。不起立先生がもしこの2人のように大きな代償を払ってでも抗議活動をするのだとしたら、それはそれで立派かもしれないが、高給を受け取ってぬくぬくと勤め上げるのだとしたら、他人に感銘を与えることはないだろう。

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2012年2月28日 (火)

パワハラ

   ワタミの渡辺美樹氏の言葉が波紋を広げているようだが、どこからがパワハラに当たるのか、という基準はなかなか難しい。相手が偉大だと言われている場合、たとえば黒澤明監督にこっぴどく叱られても、「この野郎」などと思うことはないかもしれないが、イラついた菅首相にボロくそに言われたら、反旗を翻す人はけっこう現れるのではないだろうか。反論しても、菅氏は絶対に自説を曲げないだろうし、反省もしないだろうから、側近のストレスは極限状態となる。「ふざけんな」「やってられねえよ」という気持ちを抑えるのは、自分の今の地位を失いたくない、自分には家族がいる、という意識なのだろうか。

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2012年2月27日 (月)

賞の格

  三大映画祭はカンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭だそうだが、アカデミー賞の格はこれらと比較してどうか、という感覚がわからない。アカデミー賞の場合は、アメリカ国内の映画が対象であるが、公認映画祭のグランプリはノミネート候補作に推挙されるという。芥川賞はどうなんだろう。ノーベル文学賞にははるかに及ばないものなのか? 私は「ノーベル文学賞をとった作家」とか「芥川賞をとった作家」ということだけで読みたいと思ったことはないが、アカデミー賞受賞作品は一応チェックしておかないと、などと考えてしまう。映画も書籍も衰退傾向があるとしたら、セールスに寄与するような賞を考えなければならない。「本屋大賞」が参考になるかと思って調べてみたが、私の読みたい本の傾向とは違うようである。

  「B1グランプリ」や「ゆらん」のランキングは時々参考にさせてもらっている。今日「瀬戸焼きそば」なるものを食べた。2011年12月にブランドが確立されたばかりだということだが、大変気に入った。ぜひがんばってもらいたい。

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2012年2月25日 (土)

求められている、重要である、大切である、課題である

  役所関係、教育関係の文章で鼻につく言葉である。求めているのは、一部の国民なのか? 国民のほとんどなのか? 気がつかないうちに情報操作が行われる可能性がある。「それが今の流行である」という意味なら、いかにも薄っぺらい。独特の言葉遣いが鼻につく文章は注意が必要である。

 新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。
 これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。
 次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。
「生きる力」を育むためには、学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。
 子どもたちの未来のために。
 新学習指導要領、スタート。<文部科学省>

  「ゆとり教育」に対する批判が強くなってきているが、「生きる力」は文句のつけようのない概念なのだろうか。「学び」という言葉も独特の臭いがする。かつて猛威を振るった「子育て」という言葉も衰退気味であるが、役人や学識経験者はなぜこういうキャッチフレーズのようなものをつくりたがるのだろう。

例)静岡県では「有徳の人」づくりを推進しています。
「人づくり推進員」は「人づくり百年の計委員会」(会長故草柳大蔵氏)提言(平成11年10月)を県民の皆様に伝え、「人づくり」の実践を促すために設けられ、現在は、静岡県が進める「人づくり」への県民の理解を深め、家庭や地域における子育てや人づくりへの助言を通じて、県民自らが行う人づくり実践活動の促進を図るため、学校や幼稚園、PTA、地域活動の場でお話しします。

  一体、誰に向かって提案しているのだろう? 保護者? 納税者? 少なくとも子供たちに語りかけているわけではない、ということはわかる。

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2012年2月24日 (金)

小型の移動手段

  都会の交通手段として人力車や自転車のタクシーも考えられるが、もう少し小型化されれば、人ごみの中を移動することが可能である。年配者の中には、足が不自由というわけではないが、長時間の歩行はつらい人もいるだろう。しかし、車椅子を利用することにはためらいがある。観光地や美術館に車椅子を設置してあるが、押してくれる人「込み」でないとなかなか利用しにくい面もある。工場内をコンピューター制御で行き来する台車があるが、地域を限定するなら、椅子に座るだけで自動的に観光したり買い物ができるシステムがつくれるのではないだろうか。可能なら、今度は寝たきりの人が気楽に外出できるシステムを考案してみる。ベッドごと移動できるようにするわけだが、人ごみの中へ出るには病院のベッドよりも小型化する必要はあるだろう。それが無理ならば、カメラ付きの遠隔操作の機器、たとえばメタルギアのようなもので、病室にいながら観光や、買い物ができるシステムにする。あるいは犬にカメラを搭載して、マイクを通じて指令を出すことができれば、あまりコストがかからないのではないか? 盲導犬ならば可能であるような気がする。

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2012年2月22日 (水)

猫バス

2月22日の猫の日にちなんだアンケートで、好きな猫キャラ第一位は猫バスだそうだ。新しいコンセプトの自動車が提案されているが、生きた乗り物を復活させるのはどうだろうか。「生き物」と「乗り物」で「生き乗り物」である。ただ、従来の牛馬やラクダの欠点は糞をするので、都市交通としては適さない。動物愛護の観点からは否定されるだろうが、品種改良で糞をしない動物を開発するというのはどうだろう。メタルギアソリッド4に登場する「月光」の脚は「有蹄類のES細胞を遺伝子操作した生体部品」だそうだが、これなら糞をすることもないだろう。猫バスの脚も同じようなつくりだろうか。

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2012年2月21日 (火)

どの時点で悪になるのか

  生きていく上で様々な悪条件が重なることがある。金がない、容姿が悪い、頭が悪い、両親が不和だ、父親に殴られる、振られる、受験に失敗する、失業する、いじめられる…「ふざけんじゃねえ」とキレたり、悪の道に走ったりする基準は何だろう。たとえ一つのジャンルでも、あまりに度が過ぎている場合にそうなるのか、それとも、多方面に渡って不運が重なると、逃げ場がないと感じてしまうのだろうか。38歳では耐えられるが、18歳では耐えられないものだろうか。58歳になってもキレる人はキレてしまうのだろうか。58歳では悪の道に走るには遅すぎるだろうか。
  実施不可能だろうが、様々な不運を与えて悪の道に走るかどうか、という実験をした場合、一番最後まで持ちこたえる人はどのような人だろうか。神から様々な試練を与えられたヨブは、ひょっとして神による実験の被験者だったのではあるまいか。

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