2009年7月11日 (土)

独裁者の死

   死を恐れる独裁者は、1日でも寿命をのばそうと、様々な人材を集めるに違いない。始皇帝は徐福に蓬莱島にあるという不老長寿の秘薬を取りに行かせているし、不老長寿の薬だと教えられたのか、水銀を服用していたらしいが、これが命を縮めたという説もある。
   我が国に敵対的行動をとり続ける国の独裁者が健康不安をかかえていたとしたら、たとえば最高の医療チームを編成して派遣することを条件に、有利な取引を行えないだろうか。我が国の科学技術は、火葬された遺骨が偽物であることをDNA鑑定で見破れるほどの、高いレベルであることは百も承知のはずである。・・・いや、チームを派遣するのはまずい。もし治療が失敗した場合は日本に帰ってこれるという保証がない。

   お家騒動につけこむ作戦はどうか。たとえば日本に興味を持っているだろう長男をタレントとしてスカウトする。(このアイディアは週刊誌の受け売りである。週刊ポストか週刊現代だが、どっちだったかわからない。歯医者でパラパラと見ただけなので申し訳ない。たけしの意見だったかもしれない)。長男を北朝鮮評論家にしてテレビ出演させれば、他の追従を許さないというわけだ。

   かつて中国で反日運動の嵐が吹き荒れたとき、日本人美少女「紗綾」の画像とともに反日的行動をしないでほしいというメッセージを流したら騒ぎが鎮静化したという話がある。最近北朝鮮のサイバーテロが話題になったが、この手の「お願い」は効を奏するだろうか。北朝鮮のIT技術者に美少女がお願いするのである。(アニメでもよい)

   いずれも、低レベルのアイディアであるが、そもそも、自分の要求を通すために核実験をしてみせる、というのも相当低レベルの政策である。

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2009年7月 9日 (木)

ロシアンルーレット

   ランボーのことを考えていたら、「ディアハンター」のロシアンルーレットの場面を思い出した。「ビル・ゲイツの面接試験」という書物に次のような問題がある。

あなたは椅子に縛りつけられて、立ち上がれません。回転式の銃があります。弾倉もあります。六発入りですが、今はからです。見てください。銃に二発入れます。隣あったところに入れます。弾倉を銃に戻して、回します。銃をあなたの頭に向けて、引き金を引く。かちっ。まだ生きてますね。運がいい。じゃあ、あなたの業績について話す前に、もう一回引き金を引きます。もう一度弾倉を回した方がいいですか、それとも、そのまま引き金を引いた方がいいですか。             
「ビル・ゲイツの面接試験」ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳  青土社

   答(要約) 弾倉を回すと、6発分のうち4発分は空だから生きている確率は6分の4、つまり3分の2。弾倉を回さない場合。4発分の部分は連続している。そのうち一つにあたったから、今生きている。その4発分のうち、3発分は隣も空である。残った1か所は、2発続く弾の前にある。つまり、弾倉を回さなかった場合、隣も空(2発目も空)である可能性は4分の3。4分の3は3分の2よりも率はいいので、弾倉は回さない方がいい。

   ということである。「捕虜を虐待するためにロシアンルーレットをやらせて、次に生き残るかどうかを賭ける」という稀有な状況に遭遇したら参考にしてみたいと思う。

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2009年7月 8日 (水)

ランボー

   「ランボー最後の戦場」をやっと見た。シルベスター・スタローンの老いた姿を見たくなかったのだが、ランボーは裸体をさらすことがなかったので、意外と年齢は気にならなかった。ランボーの寡黙な役柄は、「ロッキー・ザ・ファイナル」のロッキーにも似通っている。ロッキーもランボーも言いたい奴には言わせておくが、いざとなったら圧倒的な実力を見せつけるというヒーローである。スタローンが警官に扮した「コップランド」もそんな役どころだった。トミー・リー・ジョーンズ主演の「告発の時」も、「引退した老いぼれ」と見られていた男が圧倒的な捜査能力を見せつける。

   「昼行灯」と言われた大石内蔵助が見事仇討ちを成し遂げる点にわれわれは拍手喝采を送るのだが、アメリカ人が痛快だと思うツボも日本人と似ているような気がする。中国人が好きな「韓信の股くぐり」も同じ心情なのではないだろうか。
   現実には「この老いぼれ!」と嘲られても、復讐するチャンスも能力もなく、「この野郎」などと思う気力もなく、意気消沈して引っ込んでしまうケースがほとんどだろう。
   心の中ではランボーやロッキーでありたいと思いつつも、肉体的に若僧をギャフンと言わせることは難しい。いや、ロッキーのように素手で戦うのは不可能だとしても、ランボーのようにブローニングM2重機関銃をぶっ放すことはできるかもしれない。映画でも、あの憎たらしい、非人間的な兵隊たちが吹っ飛んでしまうのは何と痛快なことだっただろう・・・「ふざけんな、この野郎」とキレる快感は年齢を重ねても衰えない。

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2009年7月 7日 (火)

アンビエント

   ホテルの廊下で静かな音楽が鳴り続けているように、私の心の中にも絶えず一定の感情が「流れ」続けているような気がした。私の場合、気がつくと「ふざけんじゃねえ」といったマイナスの感情が流れ続けているようだ。
   「基本的に暇だけれど、それが仕事なので休憩するわけにはいかない」といった状態で自分の心を観察してみると気がつくのである。たとえば退屈な会議中、儀式の最中、監視労働中、内職の最中、かすかに流れ続けているアンビエントのような感情や内語がある。落ち込んでいるときは、「もうだめだ」とつぶやき続けていたこともある。
   とめどなく性的な空想にふけっていることもあるし、他人の悪口が止まらない場合もある。
それが同じ調子で流れ続けているならば問題はないが、うっぷんが蓄積されていくようなタイプの人は破局的な行動に結び付く可能性がある。防犯用のモスキート音を発生する装置があるのだが、人の心を落ち着かせるような環境音楽は効果はないものだろうか。

   最近「アルファ波音楽」という言葉をあまり聞かなくなったのだが、「マイナスイオン」同様、さほど効き目はなかったということか? テレビをつけながら今この文を書いている。歌番組なので、なかなか集中できない。マスキングのためにiTunesに入っているクレマンジャヌカンの曲をイヤフォンで聞いている。(じゃ、テレビつけるなよ、と言われそうだが、色々事情があるのだ)。クレマンジャヌカンは何だか落ち着かない音楽のようなイメージがあったが、歌詞が全くわからないので、集中力の妨げにはならないようだ。
   深夜の公園にはモスキート音ではなく、バロック音楽でも流しておいたらどうだろう。賛美歌でもいいかもしれない。

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2009年7月 6日 (月)

日本語日本文化(^^)コース

   鈴峯女子短期大学(広島県広島市)の言語文化情報学科に日本語日本文化(^^)コースというコースがある。「日本語日本文化(^^)」である。もう一度確認するが、「(^^)」がついているのである。

学科紹介
古典文学から近現代文学、映画・アニメ・ファッションなどのサブカルチャーに至るまで、様々な日本文化に触れる中で、あなた自身の資質を発見していく日本語日本文化(^^)コース。今の自分を変えてみたい人、相手をもっと理解したい人・・・、あなたの「日常」と「学問」がコラボします!また本コースは、様々な企業への就職はもちろん、難関四年制大学への編入学にも高い実績をあげています。

   何を学べるかというと、「日本語・日本文学をより深く学べる。映画・アニメ・マンガを研究できる。難関校への編入学に高い実績」なのだそうだ。で、どの部分が「(^^)」なんだろうか。
別に何の批判もないが、市町村名、学校名、会社名、銀行名などに様々な記号を入れるのもアリかもしれない。

□□市(笑)  □□□大学?  (株)□□!   □□・・・銀行

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2009年7月 5日 (日)

修理とメンテナンス

   そう言えば、今の車を買って1年経つが、一度もボンネットを開けたことがない。その前の車も5年乗ったが、ほとんど自分でメンテナンスをしたこともない。電化製品がちょっと不具合になると、修理するより買い替えようかとまず考えてしまう。
   人間関係にも修理とメンテナンスが必要である。「何だかしっくりこない」ということはありふれたことだから、破局を迎えるまでにまず修理とメンテナンスを試みる必要がある。友達になる方法は様々あるのだが、われわれは「関係を修復する」という技術は意外と習得していないのではないかと思うことがある。トントンとたたけばうつりが良くなった昔のテレビのように、理屈はわからなくてもうまく仲直りできる方法があるのではないか?
   あるいは、孤独に対する耐性を獲得することによって、人間関係で悩むことも少なくなるような気がする。話し相手がない、お弁当を食べる仲間がいない、というのは辛いことだろうが、それが全てというわけでもない。たとえば読書をしたり映画を見たりするのに仲間は必要ない。(誰かと映画を見に行くのが苦手である。連れはこれを面白いと感じているのか、退屈なのかという余計な心配をしなければならないからである)

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2009年7月 4日 (土)

劣化の速度

   電気製品の不具合の半数以上はコードやプラグの劣化であり、本体はまだまだ使える場合が多い。プラグはプラスチックで固められているので、分解して修理することができない。パソコンの場合はキーボードやディスプレイがまず劣化してくるようだ。キーボードは外付けで間に合うし、ディスプレイが不具合になったノートパソコンも、プロジェクターを接続したら何ら問題なかった。
   機械類は劣化のはげしい部分と、ほとんど劣化しない部分に分けられるのだが、部品がなかったり、修理する技術がないと、装置全体を取り換えなければならないので消費者にとっては不経済であるが、メーカーにとっては買い替えを促進するので好ましい特性である。
   車の場合も、様々な規制や燃費やオーディオを問題にしなければ、走るということに関しては大して変化していない。エコカーに買い替えることが奨励されているが、地デジ並みに、何年までにガソリンスタンドは廃止されるといった制限時間があれば、急速に普及するのだろう。少数のガソリン車愛好者がガソリンを求めるのだが、レコード針同様、どこにも売っていないという状況が生まれるかもしれない。

   分解する、部品を取り換える、ネジを回す、油をさす、トントンとたたいてみる、という行為をまったくしたことのない若者が増えている。

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2009年7月 3日 (金)

プログレッシブ雅楽

   フランスで開催されるジャパンエキスポのコンサートに参加する「明日香」というグループだそうである。何でもかんでも「和テイスト」を出せばいいというわけではないが、これはなかなかおもしろそうである。特に「笙」は形態といい、演奏方法といい、外国でもウケそうだ。
   海外のイベントなどでよく和太鼓が演奏されるようだが、能登の御陣乗太鼓などが分り易く楽しいのでいいかもしれない。踊りとしては河内音頭のリズムなどがウケそうな気がする。
   ジャパンエキスポにはパフィも登場するが、30過ぎてもカワイイという点がフランス人にも受けるかもしれない。ニューアルバム「bring it」の中のBye Byeという曲が甘酸っぱい記憶を呼び覚ましてくれる。

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2009年7月 2日 (木)

自分であることを確認する

  私は自分の半生のすべて、それもことに、幼いころに起きたできごとについて繰り返し語っておきたいと考えている。言葉にしておかなければ記憶と触れ合うことができなくなり、自分のなかで何かが死に絶えてしまうことが私にはわかる。
「記憶は嘘をつく」 ジョン・コートル 石山鈴子訳 講談社

   もし記憶を反芻することを怠ると、「あれ? ぼくは誰だったんだっけ? 」という状態になったりするだろうか。記憶喪失ではなく、「最近物忘れがはげしくてね。人の名前が出てこないんだ。ところで、私の名前は・・・何だっけ? 」という現象はありえるだろうか。
   何年も自転車に乗らなくても、自転車の乗り方を忘れることがないように、自分が誰であるかということを忘れるということはないだろう。私が私であるということは、知識として蓄えられている「情報」ではなく、私の根幹をなしている何かである。
   フィリップ・K・ディックのSFには模造記憶のアイディアが登場する。映画化された「ブレードランナー」や「トータルリコール」も植えつけられた記憶がポイントになっているのだが、私は私である、ということは記憶によって確認されるようなものではないのではないか、と私は考える。

   死の恐怖は、生涯にわたる経験の記憶がなくなることから生じるのか、それとも、今、ここで様々なことを感じたり考えている「他ならぬこの私」が失われることから生じるのか。記憶喪失の人は死ぬことが怖くないだろうか。そんなことはあるまい。

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2009年7月 1日 (水)

ヘイケガニ

1952年に進化生物学者ジュリアン・ハクスレーはライフ誌でヘイケガニを取り上げ、この模様が偶然にしては人の顔に似すぎているため、人為選択による選択圧が作用したのではないかと述べている。 この人為選択説では甲羅の模様の成因を、それが顔に似ている程、人々が食べることを敬遠し、カニが生き残るチャンスが増えたため、ますます人の顔に似て来たのだと説明する。
1980年に天文学者カール・セーガンも、テレビ・シリーズ『コスモス』と同名の著書の中でこのヘイケガニの人為選択について取り上げている。また、甲羅の模様が平氏の亡霊が乗り移ったという伝説が選択に作用しているならば、その伝説が色濃い瀬戸内海、特に壇ノ浦に近いところほど、漁師がこのカニを捕まえるのを嫌がったかもしれず、そうすれば壇ノ浦からの距離が近いほどより人間の顔に近い模様になっているのではないかという仮説を提唱した。  Wikipedia

<その後、この人為選択説は日本の研究者によって否定されている>

   人間に関して具体例で考えると差別的な話になってしまうので、抽象論で考える。ある人間集団が、支配的な集団にきらわれるような特徴Xを持っており、伝説(噂)Rがその特徴に対するイメージを強化すると仮定する。もしXゆえに虐殺されるのなら、人為選択の効果どころではなく、民族浄化につながってしまう。
   差別にも「関わりあいになりたくない」というケースと「抹殺したい」というケースに分かれるのではないだろうか。この「関わりあいになりたくない」という選択を人々が行うならば、一種の人為選択が働いて、差別されている人々の生き残るチャンスが増えたりしないだろうか。あくまで、まだ空論にすぎないのだけれど。

   ヘイケガニから飛躍しすぎなのだが、「いじめ」はどうだろう。ついからかってしまうタイプと、関わりあいになりたくないタイプがあるかもしれない。私の場合は、からかわれることはなかったが、放っておかれることが多かったような気がする。で、それは悲しいことだったかというと、私にとっては有難いことだったのである。キャーキャー馬鹿騒ぎをするより、本でも読んでいた方がよほど楽しかったからだ。ただ、私と似たようなタイプを見つけても共闘するなどということはなく「いけすかない野郎だな」などと思っていたのである。

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2009年6月30日 (火)

私生活

   タレントの私生活をあばいて何が面白いのだろう。
「マイケル・ジャクソンが薄毛だった」という報道を聞いて「面白い」と感じるか「聞かなきゃよかった」と感じるか、人それぞれだろうが、私は余分な情報だと思う。
   有名な作家が実はこれこれだった、ということを研究する人もいる。本人は価値ある研究だと思っているかもしれないが、私は瑣末なことだと思う。一生をかけて、何で他人の私生活をあばく必要があるのか。
   作家の手紙が展示されたり、高値がついたりする。観光旅行のついでにナントカ記念館のような場所に立ち寄っても私は作家の使った文房具やメガネや生原稿でさえもほとんど興味が持てない。ゲーテが「もっと光を」と言って息をひきとったベッドを見たときも、カフカの生家を見たときも「ふーん」という感じで、別にとりたてて感想も持たなかった。私はカフカの作品を高く評価しているにも関わらずである。感受性が無いと言われればそれまでだが、私はカフカと作品を通じて付き合っていた方がいい。

   私生活を売り物にするタレントがいる。離婚、認知症となった配偶者、貧乏、借金苦、スキャンダル・・・それでしばらくは稼げるのかもしれないが、そんなものを切り売りするぐらいだったら、早く引退して余生を送った方がいいと私は思う。

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2009年6月29日 (月)

ムーンウォーク

 会社の忘年会でやったかどうかは知らないが、文化祭のダンスで、キャンプファイアーのスタンツで、繰り返し繰り返しマイケル・ジャクソンの「スリラー」の振り付けが使われた。(最後のオチでこの踊りに突入、というパターンが多かったような気がする)
 私はダンスはできないが、ムーンウォークだけはマスターしていた。最近ムーンウォークをやってみたが、もはやできない。体重が増加したせいだろう。「あなたはムーンウォークができますか(できましたか)? 」という調査を世界中で、年代別に行ったらどのような結果が出るだろうか。中国人もインド人もできるのだろうか?
 日本人はかなり高い割合でムーンウォークができるだろうが、世界的な標準から言うと「目のつけどころがそこかよ」と非難されてしまうのかもしれない。。

 あと、ジャネット・ジャクソンの、「ファーストフードのドライブスルーの店員がしている、マイクとイヤフォンが一体になったの」で歌うのがカッコいいと思ったことがあるが、これも「目のつけどころがそこかよ」と言われてしまうのだろう。そりゃ、歌が大切だということはわかるが、英語だから何て歌ってるのか聞き取れないんだもの・・・という人が多いんじゃないかな。

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2009年6月28日 (日)

プロレスの衰退

 プロレスの衰退に歯止めがかからないという。そう言えば私はもう何年もプロレス中継をテレビで見たことがない。色々な要素があるだろうが、観戦する側の「何でもあり」ということを許容する能力が衰退しているのではないか、ということを心配する。
 プロレス以外の格闘技、いやスポーツ全般においても「新しい技を開発する」という余地はさほどないのだが、プロレスの場合は独特の技が生み出され続けてきた。
 「イエローカード」や「退場」という厳格なルールで育ってきた若者には、反則もある程度許容する太っ腹なプロレスのレフェリーはとうてい許すことができないかもしれない。また「顔面セーフ」のように、自分たちでルールを決めるという経験もないのかもしれない。

 覆面をした選手も、60代の選手と若手の対戦も、タッグマッチも、バトル・ロイヤルも、デスマッチも、他流試合も、他のスポーツでは見ることができない。

 ちょっと変わったことを言うと「ありえなーい」などという奴、数値がちょっとでも基準からズレていると説教する奴、仕事でも同じ技を何十年も使う奴、同じダジャレを何十年も使う奴、「**といえば○○・・・ですが」というパターンを延々と繰り返すという手垢のついた手法のCMをつくる奴、ナントカレンジャーという5人組のキャラクターを登場させる役所、「お父さんなんかキライ」「うぜーんだよ」といったお決まりの演技を子役にさせる演出家・・・
 何か新しいことを考えだそうとする人がいないわけではないのだが、それを面白がる人が減ってきたような印象を私は持っている。

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2009年6月27日 (土)

煮干しで解剖実験

  小中学校の理科でフナの解剖実験をした記憶がある読者も多いだろう。だが今、全国の公立学校では、フナの代わりになんと、煮干しで解剖実験が行われている。父兄があきれて理由を学校に問うと、「予算がない」と言われるそうだ。

週刊文春7月2日号 亡国の「文科省」教育予算3兆円を天下り3千人が喰い尽くす

  まさか、煮干しで解剖実験だなんて、と思い調べてみたら、かなり「実践」されているようだ。たとえば

  第4回啓林館「教育実践賞」の審査員特別賞「煮干しの解剖を通して命について考えよう」という授業の研究のねらいは

 理科の中で生命を尊重する態度について,子どもの心を揺さぶるような研究や実践はあまりされていない。今回は,煮干しの解剖の体験。そして,それを通しての自分の思いや考えをクラスの中で出し合い,話し合うことで,命についてクラス全員で考えることを大切にしていきたい。そして,解剖を通して学んだ知識,技能を自分たちはどのように受け止め,どんな人になったらいいのかを子ども達に問いかけたいと考える。

ということだそうだ。限られた情報で一概に批判すべきではないと思うが、話し合いの中で、子供たちがこんな意見を出している。

「せっかく,一生を終えて死んだのに死んでからもてあそばれてかわいそう。」
「自分の体を解剖されたらどうかを,考えてほしい」
「魚だって命がある。毎日のように魚を食べているけど,私は食べるよりも解剖する方が酷いと思います。なぜなら体を開かれてグチャグチャにする方が酷いと思うからです」

・・・フナではなくて、煮干しの解剖でこんな意見が出るというのが驚きである。安上がりでいいのかもしれないが、煮干しでこんなことを考える子供は大人になったらどんな人になるのだろう。ジャイナ教徒にでもなる気か?

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2009年6月26日 (金)

他者の記憶

   私の少年時代、スコットランド・ハイランドの冷たい朝の空気を切って自転車で通学した記憶は、痛い感覚のなかにも生き生きした心的イメージです。しかし皆さんは私のこの記憶にアクセスすべくもありません。
            
「ビハインド・アイ」  脳の情報処理から何を学ぶか D.M.マッケイ著
V.マッケイ編  金子隆芳訳  新曜社

   他人の記憶には直接アクセスできないのだが、類似の記憶を対比させて共感することは可能である。そうでなければ文学は成立しない。たとえば他人の初恋の記憶に私は直接アクセスはできないが、私の初恋になぞらえて共感することは可能である。その他、注射の痛さ、空気のすがすがしさ、空腹・・・といった様々な項目があり、いわばコード表のように分類されているとしよう。もちろん、その度合いの違いはあるので、

弱い  やや弱い  普通  やや強い  強い  

   といった度合いのイメージを付け加えることにする。

   人間の場合は問題が複雑なので、ゾンビやロボット程度の「共感」を考えよう。
たとえば「ターミネーター」のT-800のような大量生産品のロボットを考える。戦争をしているのだから、彼らだってチームで行動しなければならない。そこには共通の了解事項もあるだろうし、斥候役のロボットの報告に対する「共感」だって必要である。
遭遇した敵の戦闘能力がどれぐらいだ、ということを言葉で知らせるとしよう。たとえば相手のパンチ力を「ものすごくイテー」と表現すればその度合いを予測することができる。
T-800が全く同じコード表を持つことは可能だから、「ものすごくイテー」などというアバウトなことではなく、コード番号を言えば正確に伝えることができる。たとえば

刑務所の食堂のステージで囚人の一人が番号を言うとどっとうける。・・図書室の「ベスト・ジョーク1万話」のジョークナンバーをどなるだけでいい。
「思考の道具箱」ルディ・ラッカー 金子務監訳  工作社

という具合である。

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2009年6月25日 (木)

積み木の比喩

   数式の扱いに不慣れなので、比喩でしか考えることができないのだけれど、過去から現在に至る出来事のつながりを積み木の塔で考えてみる。将棋やチェスの手を積み木を積むことになぞらえると、有段者なら数十手先(数十個先)まで読んで組み立てることができそうだが、素人の場合は数手先もわからず、やみくもに積み重ねてしまうのだろう。
われわれの一生も、有名大学を出て一流企業に就職し、何歳までに結婚して子供は何人云々という人生設計をたてる人もいるかもしれないが、私のように行き当たりばったりで、後で後悔する、というパターンの人もいるだろう。

   ところで、過去のある時点に戻って、出来事を変更することを考えてみる。変更は「積み木を抜く」ということである。積み木を一つ抜くことで、その上部に影響を与え、最悪の場合は塔が崩れてしまう場合もあるが、全く影響を与えていないように見えることもある。バタフライ効果が起きるようなカオス系の場合は、積み木をちょっと変えるだけで全体が大きく変わってしまうわけだが、抜く積み木によっては、まるで何も変わらないという場合もあるだろう。
抜いても大丈夫な出来事は、その上と下の積み木と因果関係を持っていないと考えることにする。
   「関係のない」「冗長な」積み木をことごとく抜いてしまった場合、積み木の塔の強度はどうなるだろうか。「冗長」という名称ではなく、出来事の「スペア」と考えるならば、全く無駄な出来事ではないかもしれない。

   もう一つの比喩は「だるま落とし」である。一つの出来事をすっ飛ばすと、上からガシャンと降りてくるのである。玩具のだるま落としではなく、だるま落としタイプのゲームで考える。たとえば同じ色を3つそろえば消え、その空間を埋めるために上にあった色がガシャンと落下する。過去を変更すると全体が影響を受けはするが、上下の「支える関係」の辻褄は合っていて、パラドクスは生じないというモデルである。

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2009年6月24日 (水)

歴史の中の個人的理由

   同じ条件の下なら過去の出来事は起きた通りに継起していくのか、ということを考えてみる。たとえば、「ピタゴラスイッチ」の場合、何千回と玉を転がしても同じ結果が得られるなら、信頼できる精巧なシステムだと言える。しかし転がす度に「あれえ? おかしいな」などといって中断されるなら、信頼性は低い。

   過去の出来事はピタゴラスイッチのようなものだろうか。それとも、「あれえ?おかしいな」という類のことなのか。多分、後者の割合が大きいのではないだろうか。
たとえば、桶狭間の戦いは、気象条件、武将のカリスマ性、軍団の士気、敵の慢心・・・といった諸条件を一致させれば同じ結果が得られるだろうか。ナポレオンがワーテルローで敗北したのは彼の患っていた「痔」が原因ではないかという説がある。もし信長にも同じ病状があったとしたら、馬にも乗れず、戦に勝利することはなかっただろう。
他人には知られることのない個人的な要素が結果を左右してしまうわけだが、そうした状況を全て把握して出来事を再現するというのは不可能である。「痔」ならその仕草などからある程度察知できるが、個人的な恨み、野心、コンプレックスの類は知られることなく、歴史書にも記載されることはないのだが、そこがまさに歴史を動かす原動力になっていたりするわけだ。「レッドクリフ」の曹操の場合は、愛する女性が戦の動機になっているようじゃないか。

   話を元に戻すが、長期に渡り、ほとんど変化のないような現象・・・たとえば「エジプト文明」、テレビの「水戸黄門」や「笑点」などは、システムを変更させるような突発的な事件がないか、あってもその影響がすぐ「吸収」されてしまうような安定した現象ではないのか? いわば、歴史におけるピタゴラスイッチであり、何度玉を転がしても同じ結論に落ち着くしくみになっているのだ。

   もちろん水戸黄門や笑点にまったく変化がないというわけではなく、登場人物の交代はある。風車の弥七、うっかり八兵衛、鬼若、といったキャラが現れては消えるのだが、全体の印象は受け継がれていく。笑点も、円楽やこん平がいなくなった当初は違和感があるものの、視聴者はすぐにその状態を受け入れている。過去に戻って八兵衛を殺害しても、ほとんど未来には影響を与えない・・・というか、水戸黄門にも笑点にも、想定される未来など存在しないかのようだ。
   エジプト文明、江戸時代、といった長期に存続する時代に、「未来はきっとこうなる」などと期待を持っていた人などいるのだろうか。幕末は別としても。

   最近の私の境地は「あとは死ぬだけだな」というものである。別に悟りをひらいたというのではなくて、「そんなものだ」といった一種の諦めの気持ちである。。寝る前にヒモを「カシャカシャカシャ」と引っ張って蛍光灯を消すようにスッと死んでいけたらいいのに、と思う。一番最後はナツメ球を「カシャ」と消すのだけれどね。

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2009年6月23日 (火)

バタフライ効果

  バタフライ効果とは、「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能」ということの詩的表現である。蝶の羽ばたき程度のものであっても、その後の世界は大きく変化してしまうことになる。波・風・温度などの気象や道路における自動車の自然渋滞がバタフライ効果の例である。

  映画「バタフライエフェクト」の主人公は自分の過去の出来事を変化させることによって人生を変えようとするが、詰め将棋のように「ここに銀を打つとああなって、こうなって」という思惑ははずれ、思わぬ出来事に発展していく。映画「ターミネーター」で、過去に戻って「スカイネット」の創始者を殺しさえすれば機械との戦争を防げるという考えは単純すぎるわけである。たとえば、「スカイネット」の創始者の生んだ子どもが成長してロボットたちとの和平交渉に成功し、再び世界は平和を取り戻すかもしれないが、それより前の時点で戦闘に明け暮れている兵士にはそんな未来のことは理解できないのである。

  あのとき、彼女に告白していれば・・・という反省をわれわれはしがちであるが、世界はそんな単純なものではないかもしれない。これから先、もっと素晴らしい人との出会いが待ち受けていたら、最初の彼女と結婚したことを後悔する羽目になるかもしれない。

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2009年6月22日 (月)

しつこく復元

   パソコンの中からいらないファイルを削除しようとしたら、削除したとたんに「ニョキニョキ」とファイルが復活する場合がある。6月15日に書いた「歴史の自己修復能力」のイメージはこれだと思った。いくら削除しようとしても、即座に復活するので「歴史の流れ」にほとんど影響を与えることがないのである。このようなしつこい復元能力はいくつか思い当たる。

1)映画「ハムナプトラ」に登場するミイラは、骨と筋だけだったのに、モコモコと肉が増殖していく。
2)「血液型別性格占い」はいくら科学的根拠がない、と言われても際限もなく復活し、金儲けの種になる。
3)何度も説得して「こだわり」を捨てさせても、一晩経過すると再び「こだわり」が復活する人がいて、あの説得は何だったのかとガッカリすることがある。

   出来事の系列があったとする。たとえば、Aという物体が存続するという出来事の系列を考える。数字は時間を示している。

12345    
AAAAA

   歴史に介入して、時点5でAをBに置き換えてしまうと、

12345
AAAAB

   となるのだが、6以降はBの系列になってしまうとパラドクスが生じるので、時点6で再びAに修復され、

123456789
AAAABAAAA

   となっていくのではないか、ということを考えているのだが、その際、5にBであったという事実は保存されるのか、それともそれすらも修復されて、

123456789
AAAAAAAAA

   という具合に何の変更も加えられないことと同じになるのか? もしそうなら、タイムトラベラーの意識に残った「ぼくは時点5のAをBに変えた」という記憶は「事実」とは異なってしまう。パラドックスを避けるためには、タイムトラベラーの経験も「無かったことに」しなければならない。
   現代の製品、たとえばケータイを時点5に置き忘れてきたとしよう。ケータイがある、ということをKで示す。

123456789
        KKKKK
       
   となってしまうとパラドクスが生じるので、5の時点だけKとなるが、それがどうして時点6で消えてしまうかということをどうやって説明したらいいだろう。だって、手品でもないのに、一瞬にしてケータイが消えてしまうのだから。

123456789
    K
    
   編集で5の部分をすっとばして4と6をくっつけたらどうだろう。でもそうすると、世界は編集ができる、ということになってしまうのである。

   回りくどい話をしてすまない。

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2009年6月21日 (日)

防犯グラディエーター

   私の職場にも不審者対策用の刺又(さすまた)が置かれているが、だれも使ったことはないし、刺又の研修会もない。そこで、防犯用の武器の普及のために、防犯グッズのみを用いた武道大会を開催してはどうか。市役所の職員対小学校の教員など、色々な対戦が楽しめる。ただ、相手を制圧する道具であるから、「一本」を競うのではなく、身動きができなくなるまで戦うことになる。催涙スプレーやスタンガンを使うことも許容しよう。もちろん、手近なところに武器がない場合もあるから、机を楯にしたり、箒を剣にすることもありうる。

   アトラクションとしては、犯人役の警官のコンテストはどうだろう。「どう見たってこりゃ犯罪者だよ」という演技力を競うのである。現場の警官のうっぷん晴らしとして、警察幹部に犯人役をやってもらい、ボコボコにしてしまう、というのもいいかもしれない。

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2009年6月20日 (土)

スポーツグラディエーター

   スポーツチャンバラの進化形で、選手は日本の鎧兜、ヨーロッパ中世の甲冑、ギリシアの重装歩兵、モンゴルの騎馬兵などのコスチュームをつけて試合をする。剣はもちろん国際スポーツチャンバラ協会認定の公式エアーソフト剣だから安全である。映画「グラディエーター」のように、集団戦もあり、戦車、猛獣なども登場させよう。猛獣は選手が着ぐるみをつけるのである。すでに中世の甲冑をつけて試合をする愛好家がいるらしいが、他流試合を取り入れて、様々な時代の戦士を戦わせようというわけだ。
   歩兵戦では、ギリシアの重装歩兵、信長の3間半の長槍隊、過激派の竹竿部隊、機動隊、などを戦わせてみる。もちろん、飛び道具は禁止である。
   騎馬戦では、モンゴル兵、武田の騎馬軍団、マムルーク兵などに登場してもらう。競技場を確保するのが大変であるが、ローマ時代には模擬海戦も行われたというから、がんばってみよう。

   何のために? そんなこと聞かれても困る。

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2009年6月18日 (木)

「ウザい」の防止

   「ウザってえんだよ! 」と若者は言う。私も内心「ウザい」と思っている人物はいるが、それを表明することはない。おとといの来客は強烈な口臭で、「口臭が目にしみる」ほどであったが、息を止めて何とか持ちこたえることができた。臭い息が体内に取り込まれることをイメージしてしまうので、口で息をするのもためらわれるのである。
   以前、息が続かずに「プハ、ハアハア」となってしまい、相手が「私の息、匂いますか? 」と言ったので、「風邪をひいて、鼻づまりなんです」などと誤魔化したことがあったが、臭けりゃ臭いと言ってあげた方がよかったのだろうか。
   職場の机の引き出しは隣の人の椅子の足に触らずに開けることができない。隣の席の人が開けるとかならず私の椅子につかえる。「チッ、あけんなや」と思いつつ、「いいんですよ」などと言うのである。
   コピーをとる人に「一度に何枚もとるなよ」などと頭の中で文句を言っている。相手がそんな雰囲気を察知して「すみません」などと恐縮すると、「ごゆっくり」などと言うのである。

   他人を「ウザい」と思う気持ちはありふれたものであるから、電車の宙刷り広告が視線を合わせるのを防止しているように、職場でも色々と工夫する必要があるだろう。
まず考えるべきは、机の引き出しだな。

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2009年6月17日 (水)

関係の修復能力

   ちょっとした一言で関係が破局を迎えることがある。(蕎麦を食べる音をめぐって離婚するという例もあったが、誰だったっけ? )
   軍隊、スポーツ、学級、職場、夫婦、家族で築かれるチームに関係修復能力があるかどうかということは大問題であるが、そうした動的な関係性はあまり考慮されず、「相性」といった静的な分析に終始しているような気がする。もちろん、心理学者は色々と提唱しているかもしれないが、現実の場面であまり応用されていない。通常の人事は昇進や左遷という観点で決まるのだが、チームをどうつくるか、という戦略的な人事があってもいいのだが、なかなか難しいだろう。各人に関係修復能力を高めるレッスンをすることによって、チームの機能を高めることができないだろうか。
 たとえば、チームのメンバーから聞いた悪口は他言しないこと、共通の目的や敵を常に明確にしておくこと。気をつけないと、関係は悪化するものだということを認識すること。昔からの戒めなのに「船頭多くして船山に登る」ということがまだわからない人が多くて困る。
 また、面白い人、変わった人(オッドマン)の必要性である。「ベクトルを同じくする」だけで集まった集団は長続きしない。「釣りバカ日誌」の浜ちゃんのような人材が関係修復のためには必要である。

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2009年6月16日 (火)

自我修復能力

   あれだけ性格の優しかった人に久し振りに会ったら随分きつい人間になっていた、とか、あれだけユーモアたっぷりだった人がDVでおどおどした人間になっていた、という例をいくつも見てきた。過酷な状況を経験したり、洗脳された結果だろう。人格が荒廃しても、悪影響を排除して、しばらく時間をおいたら「自我修復能力」によって人格が復元されるものだろうか。ただし、復元ポイントを設定しておかないと、幼児期の人格に戻ってしまうから気をつけなければならない。

   職場の女性の性格が非常に似かよっていることに最近気がついた。人格は伝染性のものだろうか。伝染性人格がインフルエンザより怖いのは、テレビやケータイで電波感染が起きることである。読書がワクチンになるだろうか。

   最近、ゾンビに囲まれて生活しているような気持ちになることがある。うかうかしていると、いつの間にか私もゾンビになっているかもしれないという恐怖がある。

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2009年6月15日 (月)

歴史の自己修復能力

   テレビ版のターミネーターによると、ロボットは自己修復能力があって、頭部だけでも残っていれば他の体の部分を複製することができるようだ。
   話は飛躍するが、歴史の場合はどうだろう。過去に送られて、スカイネットの製作者を殺したとしても「歴史の自己修復能力」によって、まるでそんな出来事はなかったかのように修復される、というアイディアである。
   過去の改変は「一時的」には可能であるが、それが後世に影響を与える前に自己修復されてしまえば、タイムパラドックスを避けることができるのではないか。歴史はドミノ倒しのような、たった一箇所でもミスがあると全体に影響が及んでしまうようなものではなく、一度確定したことは、何らかの影響で改変されても自己修復されてしまうのである。出来事がホログラムのように歴史に記録されているなら、一部が多少傷ついても全体には影響が出ない。

出来事の連鎖を○で示す

○○○○○○○○○○

途中で刺激を与えると○が●になり、以後はそれに影響されて●が続く。つまり、

○○○○●●●●●●

しかし、自己修復されるならば、一瞬●となっても、○が回復される。つまり、

○○○○●○○○○○

   となるわけだ。過去に戻って自分の祖父を殺した(●)としても、「祖父がいない」という事態はその後も継続されず、○はそのまま残る。そうすると、父が生まれ、この私も生まれることになる。
   ●が歴史の異物として残ることになるが、全体として影響を受けることは防ぐことができるというわけだ。

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2009年6月14日 (日)

脳内の出来事

   脳内で起きていることなど「出来事」の名に値しない、という見方もできるが、現実世界に大きな影響を与えるアイディアがいつ生まれたのか、ということが重要になる場合がある。ハンニバルの脳内にアルプス越えのアイディアが生まれた時。ピカソが「ゲルニカ」を描く衝動をおぼえたとき。ヒトラーにユダヤ人蔑視の思想が芽生えたとき・・・「どこ」はあまり問題ではないが、「いつ」は非常に重要である。たとえば、原爆のアイディアがどこの国の科学者の頭脳に最初にひらめくか、ということは勝敗を左右する。

   1934年に東北大学の彦坂忠義が『原子物理学理論』を打ちたて、原子核には巨大な宇宙最大のエネルギーを秘めていることを提唱すると共に、それらのエネルギーが兵器として利用される危険性についても指摘した[1]。しかし彼の理論はニールス・ボーア博士にも受け入れられず、欧州や日本の物理学会などの場でも評価されなかったが、実際には欧米の学者に影響を与え、ドイツでは1938年から原爆開発のための実験が試みられるようになった。 wikipedia

   ということであり、太平洋戦争中には陸軍の「ニ号研究」と海軍のF研究という2つの原爆開発計画があったという。

   「ターミネーター」のサラ・コナーが「スカイネット」の創始者抹殺を考えたように、アメリカのマンハッタン計画が何者かによって阻止されたとしても、他国が開発していたかもしれない。それが日本だったとしたら、一体どのように使用しただろうか。

   話を元に戻すが、脳内の「出来事」はバーチャルなものだと考えられがちであるが、現実世界のリアルな時間に支配されているという面も持っている。

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2009年6月13日 (土)

脳内5W1H

出来事を正確に記述するには5W1Hが必要である。

Who What When Where Why How

   これを脳内で起きていることにあてはめてみよう。そんなものが出来事と言えるかどうかという議論はひとまず横に置く。たとえば、将棋盤なしで将棋のゲームを行う。それぞれ将棋盤のイメージをもっていて「3七角、1三銀成、同玉・・・」などと言葉によってやりとりをする。Whoは対戦者、Whatは「角」とか「銀」であり、Whereは「3七」や「1三」で示される。Whenは「3七角、1三銀成、同玉・・・」という順序のことであるとみなしてもよい。Whyは明らかである。なぜ「3七角」なのか。それは数十手先まで見通した手かもしれないし、苦し紛れの一手であるかもしれないが、「理由」は勝つことであり、「3七角」にそれ以上の意味などない。

   小説を読む場合はどうだろう。登場人物は当然5W1Hを満たしているわけだが、将棋と違って読者はWhoであるとは言えない。なぜなら、登場人物を自由に動かすことはできないからである。疑似的に登場人物がWhoであるとみなされ、それなりにWhyの答え(動機)も持っているが、それは読者のものではない。

   記憶の再現の場合はどうだろう。個人的な経験の再現だとする。「何々を想起しているときPET(ポジトロン断層法)で撮影した脳のこの部分が反応している」ということを問題としている場合、5W1HはPETの測定値に関連したものであるが、本人にとっての5W1Hは自分の体験に根ざしたものになっている。WhenとWhereはそれを体験した時と場所である。
しかし、Whoは? 自分の子供の頃を想起しているとすると、Whoは子供の頃の自分なのか、それとも今想起している大人の自分なのか。「小説を読んでいる」時と同様に、大人の自分は記憶の登場人物である子供の私を自由に動かすことはできない。子供の私にはそれなりに行動の理由(Why)があるが、大人になってみるとそれは全く理解不能の理由であるかもしれない。

   以上、何を言いたいのかよくわからない文章であったが、もう少し整理した形で語ることもあるだろう。未整理でも書いておかないと忘れちゃうのである。

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2009年6月12日 (金)

すばらしき新世界

佐藤 ・・・でも、ロシアには、うまい悩みの解決法があるんです。プーチン政権以降、ウォッカの種類がとても増えて、本当にうまくなった。しかも安い。ロシアは世界でいちばん酒が安くてうまい国。ロシア民衆は悩みがあるでしょう。するとウォッカを1本飲む。悩みはなくなる。酔いが覚めたら、また悩む。もう一本飲むんです。また悩みはなくなる。するとロシア人の男性は58.8歳くらいで、みんな死んでしまうわけなんです。プーチンになって平均寿命がまた下がっちゃった(笑)

第三次世界大戦 左巻 新帝国主義でこうなる 田原総一郎 佐藤優  アスコム 

   これじゃ、オーウェルの「1984」ではなくてハックスリーの「すばらしき新世界」である。認知症の問題、老老介護の問題などを連日テレビで放送していて、若者は「長生きしてもいいことはないな」などと感じている。世界一の長寿国であることを誇る気にもなれない。いっそロシアのようになってしまえばいいのか? 
   「いや、そんなことはない」と議論を展開していきたいところだが、どうも個人差があるような気がしてきた。宿泊をともなう宴会の「寝る人は寝る。まだ飲み足りない人は三次会の部屋に集まる」という幹事の連絡のように、早いとこ死んじゃった方がいいや、などと考える人がいてもいいのではないか? 全員長寿でなければならない、ということもないだろう。こんなことを書くと怒られるかもしれないけれど。

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2009年6月11日 (木)

ハードディスクの肥やし

   インストールされているが一度も使ったことのないソフトや、録画したのに一度も見ない動画などを「ハードディスクの肥やし」というらしい。芸人の場合は「飲む打つ買う」が芸の肥やしになるのかもしれないが、ハードディスクの肥やしは何かの役に立つとも思えない。
   いや、しかし人工知能がチューリングテストに合格するためには「芸の肥やし」的な一見無駄なものが必要だったりするのではないか? 別に理論があってそう言うわけではないが。

そりゃわいはアホや 酒もあおるし 女も泣かす 
せやかて それもこれもみんな芸のためや 
今に見てみい わいは日本一になったるんや
日本一やで わかってるやろ お浜
なんや その辛気臭い顔は 酒や酒や
酒買うてこい」
    「浪花恋しぐれ」

と「管を巻く」人工知能があったらチューリングテストに合格するんじゃないかな。

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2009年6月10日 (水)

愛を返してくれない人を愛し続けることができるか?

   ストーカーの話ではない。本日のニッポン放送「テレフォン人生相談」の相談者は71歳の男性、妻は70歳。妻が大切にしていた封筒に入っていた金が紛失、その後夫が見つけると、「あなたが盗った」と決めつけられ、離婚を迫られているとのこと。妻は認知症の疑いがある。夫が思いやりを示しても、妻はがんとして受け付けないという。回答者の弁護士の先生は夫の立場を理解しつつも、「愛を受け入れてくれない人を愛する」道を示唆する。
   それは神から降り注がれる愛「アガペー」のようなものだろうか。マザー・テレサならば可能かもしれないが、私には自信がない。相談者がそれを実践するとき、自分を愛してくれていたときの妻の姿を思い浮かべて愛を注ぐことになるのだろうか。それとも、自分を非難し「けがらわしい」などと言う現実の妻を愛するように努力すべきなのか? しかし、努力しなければ愛せないとしたら、それは愛と言えるのかどうか。考えてみれば、ずいぶん酷い状況である。妻をまだ医者にみせてはいないが、はっきりと認知症であると診断されれば、夫の苦悩は軽減されるのだろうか。
   70過ぎて与えられた苦難を克服したときに、この男性は精神的な「高み」に到達することができるのか、それともストレスがたまって、最悪の場合は無理心中に至るのだろうか。2人の息子がこの状況をよく理解しているというところに望みをつなぎたい。

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2009年6月 8日 (月)

実験レストラン

   ひょっとして誰かが気がついているかもしれないが、モツ煮込みにチーズを入れると美味い。味噌にチーズが入るとコクが増すような気がする・・・ということを3日前に発見した。モツ煮込みの中にチーズを落としてしまったのである。
   味噌にマヨネーズを混ぜるとドレッシングとしてイケる。ちりめんじゃこにマヨネーズ、カツオにマヨネーズはよく知られている。マヨネーズは魚の臭みを消すのである。
   料理というほどのこともないのだが、新しい食べ方を発見すると、他人に知らせたいという気持ちが起きる。そこで、思いつきを実現できる「実験レストラン」のようなものを考えてみよう。レストランに自分のアイディアを委託して、メニューに加えてもらうのだが、客は一品注文するのは不安だろうから、小皿で一品50円ぐらいで提供し、気に入ったら本格的に注文すればよい。注文すれば、もちろん50円はタダになる。客の投票により、晴れて正式なメニューに加われば、アイディアを考えた人に報奨金が出る。
   セットのアイディアも考えてみよう。たとえば、和洋中の麺のセット。蕎麦、スパゲティ、ラーメンのセットである。スパゲティを蕎麦ツユで食べたり、ナポリタンの蕎麦などを試すことも考えよう。専門家に叱られそうであるが。
   「バレンタインにチョコレート」のように、行事に何かの食品を関連させることも考えてみよう。たとえば、卒業式用のお菓子。「仰げば尊し和菓子の餡」というダジャレで、卒業式には和菓子を食べようというわけだ。その和菓子は卒業証書を入れる筒に入れて販売するのだ。「う・カール」で「カール」、「きっと勝つ」で「キットカット」というダジャレを利用した販売も行われているではないか。ダジャレが得意な中年社員の総力を結集すれば色々とアイディアが出てくるのではないだろうか。
   虫入りキャンデー、ジンギスカンキャラメル、カレーラムネのようなキモい感じのものも開発しよう。ウンコカレー、ゲロスープは、盛り付けの工夫で実現させよう。カレーにヨーグルトを混ぜて、バリウムを飲んだ後のウンコのカレーというのはどうか? 「いい加減にしてくれ!」という声が聞こえそうである。

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2009年6月 7日 (日)

いつかはクラウン

   最初はカローラでも「いつかはクラウン」が夢だった時代がある。では、今プリウスだとすると、「いつか」は何に乗ればいいのだろう。賃金が右肩上がりにならないとすると、これからもずっとプリウスに乗り続けることになるのか。それとも、フェラーリにエコカーのようなものはあるのか?
   消費を拡大するためには、出世魚のように車をグレードアップしていく階層をつくった方がいいだろう。新入社員もプリウスで、社長もプリウスなら、社長になったかいがないではないか。
   暴力団は何に乗ればいいだろう。彼らも「エコ」を気にしたりするだろうか。やはりゴツい車でなければ格好がつかないだろう。暴力団がプリウスでは相手に威圧感を与えることはできない。
   暴走族は何に乗ればいいだろう。音が静かな車では物足りない。アメリカ生まれの「ターボスポークマフラー 」は、自転車なのにバイクの排気音が出るというおもちゃである。これでもつけてがんばってみるか?
   魅力的な走りをする車でなければ再び若者の興味を引くことはできない。安くて燃費がいいだけで本当にいいのか? 

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2009年6月 6日 (土)

他人の表情をすべて理解できているのか?

   同じ「笑い」でも嘲笑、苦笑、照れ笑い、追従笑い、思いだし笑い、薄ら笑い、愛想笑い・・・など様々あるが、われわれはそれらをほとんどマスターしていると言えるだろうか。実は、こちらが軽蔑して笑っているのに、まったく意に介さない人が身近にいるのだが「人間が出来ている」というより「嘲笑」が理解できないのではないかと最近気がついた。これは他人事ではなくて、自分だって他人の表情がよく読めていなかったことがあったのではないかと心配になる。
   誤解や行違いの原因が表情の読み違えから来ているケースは多くないだろうか。先ほども「皆自分のことを嘲笑っている」と相談を受けた。明らかにそれは間違いなのだが、なかなか説得することが難しい。放っておくと、彼は鬱状態に陥ってしまうかもしれない。
学校で表情を学習する授業はないし、無表情な親に育てられた子供はどうやって表情を理解するようになるのだろう。学校の授業に演劇を取り入れるというのはどうだろう。場面場面で自分がどんな表情をしているかということを他人からチェックしてもらうこともたまには必要かもしれない。
   ちなみに私はポーカーフェイスである。それがすごく気になる人もいるようだ。(子供の頃からそうなのだが、私は直そうとしたことはない)

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2009年6月 5日 (金)

結婚式出席代行

   というビジネスがあるらしい。友人としてなら1万5000円、親族としてならプラス1万から1万5000円、スピーチはプラス8000円といった値段らしい。「ズームイン」の羽島アナウンサーは「人間関係が希薄になってきた」というコメントをしていたが、「あんたみたいな人気者ならお友達も多いでしょうよ、ケッ」などと毒づいた人もいたかもしれない。
   私は自分の葬式にあまり人が集まらないような気がしている。というのも、今年職場の現職の同僚が亡くなったのだが、同じ職場にいながら、通夜にも出席せず、香典も出さない人間が複数いたからだ。そういう時代なのかな、と思った。
   式典に出席したり、集会に動員をかける場合は、ゾンビやロボットで十分である。だって、心がこもっていなくてもよい、「にぎやかし」なのだから。まずは、結婚式や葬儀の受付などをロボットにやってもらったらどうだろう。瞬時に香典の計算ができるので便利かもしれない。

 7月5日に営まれる故・石原裕次郎さん(享年52)の二十三回忌法要で国立競技場(東京都新宿区)に建立される「裕次郎寺」が3日、茨城県つくば市の熊谷組技術研究所で報道陣に公開された。裕次郎さんが眠る総持寺(横浜市鶴見区)がモチーフで、搬入・撤収には10トントラック延べ500台が使用されるという。
               スポニチアネックス2009年06月04日

   多くの人が参列するのでこのようなことをするらしいが、人が多く集まることが供養になるのかどうか私は疑問である。「私のためにこんなに多くの人が集まってくれて、どうもありがとう」などという霊は、自分が死んだということをあまり自覚していないのである。それじゃ、成仏できない。

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2009年6月 4日 (木)

深夜の孤独から救ってくれるテレビ

夜中に死にたくなっている時に、お尻振ってるオープニングに続いて画面にタモリとか安齋肇が出てくると、私はほっとして涙が出そうになった。なんでそんなにほっとするかというと、タモリさんが(恩義のあまりさんづけ)ごくふつうな昼間(つまり太陽光の明るさ)の空気の中で、ふつうのテンションで面白いネタを楽しんでる心地よさ、が干天の慈雨のように弱っているこちらの体にしみこんでくるからである。

週刊文春 6月11日号 青木るえか テレビ健康診断「タモリ倶楽部」が、深夜の孤独から私を救った

   「孤独から救ってくれる」というのはテレビの重要な役割である。一日中家に閉じこもってテレビをつけている人もいるだろうし、死にたい気分のときにテレビを見ることもあるだろう。あまり頭を使うような番組では気持ちは晴れないし、いい歳をした政治家や評論家たちの口喧嘩も見たくはない。タモリの気楽さが丁度いいような気がする。何にも為にならない、「次回は見逃せない」というほどでもない。登場人物が多すぎない。立派な人が登場しない・・・ま、人それぞれだが。
   多くのタレントがひな壇に座ってリアクションをするという形式の番組は、意外と心が癒されることがないような気がする。力不足のタレントを数多くそろえても、見るべきものはないのかもしれない。(美男美女をそろえても同じことが言える)。

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2009年6月 3日 (水)

ホーリーネーム

   以前、インディアンネームが欲しいと言ったが、われわれは大枚はたいて戒名というホーリーネームをつけてもらうのだった。安くても何十万円、高いものでは数千万円だという。オウム真理教の上祐のホーリーネームは「マイトレーヤー(救世主・弥勒菩薩)」だったが、

   瀬戸内寂静尼に「あなた、マイトレーヤーなんて名前付けて恥ずかしくないんですか」と問われ、窮したあと、「そりゃ恥ずかしい」と認めていた。
 松尾貴史「なぜ宇宙人は地球に来ない? 笑う超常現象入門」PHP新書

   ということである。まだ「蒼き狼」とか「クレージーホース」という名前の方が慎み深く、センスが要求されるように思える。選挙を想定した政治家の「一郎」「太郎」、演歌歌手の「一郎」「三郎」、野球選手の「イチロー」「サブロー」といった単純な名前は、人気商売には向いているようだ。凝りに凝った読めないような名前はやはり避けた方がいいだろう。

   イチローはカタカナで「イチロー」と表記されるのが嫌で、アルファベットならばいいと言う。カタカナだとイヌの名前みたいだからだそうだ。玉袋筋太郎はNHKに出演するときは「知恵袋賢太郎』と強制的に変更させられたりしたが、師匠のたけしの夢はNHKで「玉袋筋太郎」と紹介されることだったという。NHKの大相撲中継に出演するデーモン小暮に対してアナウンサーが「閣下」などと呼びかけるのも面白い。デーモン小暮があのメイクで大相撲中継に登場しても全く違和感を感じなくなってしまった。私の父親が「何だありゃ? 」と一度も言わないのが不思議である。話がゴチャゴチャになってしまったが、最近「阿曽山大噴火」という、裁判傍聴が趣味の芸人をよくテレビで見かける。スカートをはくなど、何とも珍妙な姿をしているのだが、あまりそうしたところはつっこまれないようである。

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2009年6月 2日 (火)

自白競争

   誰が一番最後まで自白を我慢できるかという競争をしよう。同じ条件にするために、全てジャック・バウアーが痛めつけるとする。(最近の得意技は頭突きだろうか)。一番持ちこたえる人間は、痛みに鈍感な人間なのか? それとも痛いことは痛いのだが、それに耐える精神力を持った人間なのか? それとも使命感の一番強い人間だろうか? 

選手紹介  
1)「ヘルレイザー」の魔導士のピンヘッド
2)ゴルゴ13
3)マケイン

   拷問は痛さに限られるわけではない。たとえばピンヘッドはピンを刺されることは「イタきもちイイ」と感じるかもしれないが、くすぐりには弱そうではないか。笑ってしまっては次の「ヘルレイザー」のオファーが来ないから必死でこらえるはずである。
   ゴルゴ13にとっては使命を遂行する上で笑わなければならない状況に陥ることが一番辛いかもしれない。たとえば吉本興行の○○氏に漫才師殺害を依頼され、ターゲットに接近するために漫才師に化けなければならないとしたらどうだろう。相手を油断させるためにはそれぐらいできなければプロとは言えまい。ゴルゴ13の一発ギャグは、キムタクのCMからパクって「ゴルゴちゃんでーす」はどうか? 一発で正体を明かしてしまうので、これはマズい。
話がかなりズレた。

   私の場合「くどくどと同じ話を繰り返される」という状況が拷問に等しい。そういう先生の話を毎日聞かされている子供たちは毎日拷問を受けているようなものではないかな? 逃げることもできないわけだし。

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2009年6月 1日 (月)

スカイネット

   ターミネーターに登場するスカイネットは自我を持ったコンピューターとされ、自己のためにもっとも優先的な活動をする設定がされており、自らを破壊しようとする存在「人間」の完全滅殺を目的とする。(wikipedia)

   スカイネットが持った自我がどのようなものかはわからないが、その後の行動を見ると、自己保存を目指すようなものかもしれない。2001年宇宙の旅のHALも同様の傾向があったが、生まれたばかりの初歩の「自我」は自己保存をまず目指そうとするのだろうか。スカイネットもHALもまるで北朝鮮のような行動原理を持っているようだ。
   ターミネーター2では「未来から来た殺人アンドロイドT-800の並列処理機能を備えたメインプロセッサをリバースエンジニアリングした技術を元に設計されたもの」であり、ターミネーター3では「単一の軍基幹コンピュータではなくインターネットなど既存コンピュータネットワークを介して媒介されるコンピュータウイルスにより、それらのコンピュータ群が並列処理を行いながら一つの意識を共有する存在となった」のだそうだ。
   何を言っているのかよくわからないが、処理速度が向上するなどの性能が向上することによって自我が得られるようである。全世界を巻き込んで得られた自我が「自己保存」のような、いわば低級なものだというのが気になる。自己保存ならば、爬虫類脳でも処理可能ではないか? 埋葬の風習があったとされるネアンデルタール人の方がもっと高級な自我を持っていたように思える。

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2009年5月31日 (日)

巨人大鵬卵焼き・山形弁の「ラストダンスは私に」

   TBSラジオ 爆笑問題の日曜サンデー「ここは赤坂応接間」のゲストは相撲の大鵬だった。かつて「巨人大鵬卵焼き」と言われたが、大鵬は「大金を積んで選手を補強するような巨人と一緒にするな」という思いだったという。稽古をしろとか、横綱の品格といった話が続くのかと思ったが、こんな話が聞けて面白かった。爆笑問題は「偉い人」の懐に入るのが上手である。こういう場合、田中がそつのない進行をすることができるようだ。

   午前中のNHKラジオ第一「歌の日曜散歩」のリクエストはなかなか面白いものがかかる。今日は岸洋子が山形弁で歌った「ラストダンスは私に」を聴くことができた。1番は山形弁、2番はフランス語で、山形弁がフランス語に聞こえるから面白い。岸洋子の歌い方がおちゃらけた歌い方ではないのでその面白さが際立っていた。
   地デジ、インターネット、ケータイと、様々がツールが揃っているが、ラジオは決してひけをとっていないと感じる。NHKラジオ第一の「日曜討論」も、テレビで見るより集中することができる。テレビではすぐ飽きてしまうようだ。
   最近、高速道路の割引のために日曜日に遠出をする機会が増え、ラジオを聞くようになっている。今日は昼神温泉に行ってきました。

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2009年5月30日 (土)

私はなぜここにいるのか

Photo_2

2009年度作品 縦180cm 横360cm

パネルにフワフワカルーン粘土、アクリル絵具、岩絵具

堤防で見つけたタイヤのないバイクにトルソーのような美を感じた。しかしバイクを海辺に投棄してはいけません。昨年度の作品「どこまで行ったらお茶の時間」のバイクの行き着く先と考えてもよい。昨年度の作品は「美術館」のカテゴリーにある。

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2009年5月29日 (金)

チェックメイトキング2、こちらホワイトルーク

   アメリカのテレビ映画「コンバット」の交信では「チェックメイトキング2、こちらホワイトルーク」という暗号が用いられる。最初は「ホワイトロック」だと思ったが、チェス用語だからルークだそうだ(塔のような形の駒)。
   トランシーバーにはあこがれたのに私がケータイにのめりこめないのは、この「チェックメイトキング2、こちらホワイトルーク」といったやりとりがないためかもしれない。一度やってみたかったのに、誰もつきあってくれない。
   「24」のジャック・バウアーは了解したら「コピー」、否定する場合は「ネガティブ」という用語を用いる。重要な局面で、イエス・ノーでは曖昧さが残るからだ。要件だけ端的に伝えるという意味で、ケータイをトランシーバーのように使っているようだ。この「コピー」「ネガティブ」を使いたいのに、誰もつきあってくれない。
   「未知との遭遇」のように、キーボードで「レ、ミ、ド、ド、ソ 」と音階でコミュニケーションをとる真似をしてみたいのだが、実行する機会がない。
外線を転送するとき、スタートレックのように「転送」と口に出したいのだが、実行したことがない。「転送に失敗したらどうなるの? 」と質問されて「ハエ男になる」と言ったら「はあ? 」と理解されなかった。

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2009年5月28日 (木)

地域ごとに違っていた方がいいのか?

   どこへ行ってもジャスコがあり、ユニクロがあり、マックがあり、ヤマダ電気がある。ジャスコやユニクロも地域ごとに違うスタイルなら面白いが、そんなこともなさそうだ。別に全部確かめたわけではないが。
   まあ、ジャスコのはしごをする人もそうはいないだろうから、内装や品揃えを変えるメリットはないのかもしれない。逆に、見知らぬ土地でそうしたチェーン店に入ると「あ、同じだ」という安心感がある。外国から来た人が日本のマクドナルドに入ると「あ、同じだ」と感じるのか、何か違和感を感じるのか? 
   外国で、自分でレストランを予約したりするのはカッコいいだろうが、旅慣れてない私としては、できれば全世界で全く同じサービスや品揃えだと安心できる。不安を感じずに済むなら、ドキュメンタリー映画「スーパーサイズミー」のように「一日三食マクドナルドで30日間」だっていいと思う。外国人と喋らずに済むなら、三食ともカロリーメイトだっていい・・・私は相当臆病である。

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2009年5月27日 (水)

つまらない仕事の増殖

   受注もないのに部署内で様々なペーパーが増殖し、人員が配置され、遅くまで残業をする。センスの悪いパンフレット、読みにくい説明書、利用されない統計やグラフ、読まないうちにゴミ箱に捨てられる新聞・・・まるで無から仕事を生み出す錬金術のようなものである。それで生計をたてている人には申し訳ないが、誰も読まないようなペーパーをカットしていけば、経費削減につながるはずなのに。
   会議では手元に書類があるのに、プロジェクターで同じ内容を映し出す。顔を上に向けさせて、居眠りを防止する目的だろうが、何の面白みもないのが欠点である。面白い話や面白い絵などを駆使すれば眠気は覚めるのだが、役人にはそうした才覚はなさそうだ。学校の先生でも、全く、何の工夫もしない人がいる。
   出席者の大部分が居眠りをする会議、講義が日本全体で一日にどれだけ行われているのか、それにかかる場所代、印刷代、お車代などは総計どれぐらいなのか。
どうでもいいようなセンスのないキャラクター、「○○クン」「△△ちゃん」が増殖する。一体「○○クン」「△△ちゃん」誕生にいくらかかるのだろう。

   畑で作物を作ったり、魚をとったり、汗を流して物を運んだり、工場で油にまみれて働くこともせず、口先三寸でつまらないことを喋り、パソコンでつまらない文書作成にあけくれている。面白いことも言えず、センスも独創性もない・・・とても誇りの持てる仕事とは言えまい。(自戒を込めて)

   独創性のない人間ほど威張る。

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2009年5月26日 (火)

チャウシェスク

   ルーマニアの独裁者チャウシェスクは、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴され、形だけの軍事裁判で夫人とともに即刻銃殺刑となり、その映像が世界中に流れた。非公開処刑だとヒトラーのように生存説を唱えられてしまうからだという。(ネタ元はwikipedia)

   最近核実験を指令した「あの方」も多分、同じような末路をたどるのだと思うが、影武者が多数存在するとしたら、どういう映像を流したら世界中の人に信用してもらえるだろうか。ローマ皇帝カリギュラは親衛隊に暗殺された。親衛隊はその証拠として彼の娘を壁に叩きつけて惨殺したというが、一族もろとも処刑されれば誰もが信用するだろうか。
いよいよ危険だと思ったとき、彼や彼の親族は亡命をするのだろうか。でも、どこに亡命すればよいのか? 中国は受け入れてくれるだろうか・・・というような、余計な心配をしている。

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2009年5月25日 (月)

デスクトップ上のごみ箱

   「ごみ箱を空にする」はずが、つい「削除」をクリックしてしまい、ごみ箱のアイコンを削除してしまうことがある。わかっているはずなのに、何度もそうしてしまう。10人に一人ぐらいは同様の経験があるのではないかと思うのだが、どうだろう? 私だけ?
   車のブレーキとアクセルを踏み間違えることはまさかないとは思うものの、時々それが原因で人の列に突っ込んだりする事件が起こる。マーフィーの法則のパワーアップ形は「作業の手順が複数個あって、その内破局に至るものがあるなら、誰かがそれを実行する」だそうだが、麻酔薬の取り違えや、高速道路の逆走などのヒューマンエラーは冗談ではすまない。

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2009年5月24日 (日)

ゾンビの記憶

   「哲学的ゾンビ」は「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際 内面的な経験(意識やクオリア)を全く持っていない人間」のことであるが、記憶という点ではどうだろうか。過去を振り返って「ああ、あの時あんなことがあったなあ」などと感慨にふけることはあるまいが、どのような出来事があったのか、という記憶はあってもよさそうである。そうでなければ、他人に話を合わせることができなくなってしまうだろう。
   ゾンビではない友人が去年ディズニーランドに行ったときのことを話題にし、「どうだった? 」と感想を求めたとする。もちろんゾンビは何とも感じていないのだが、「楽しかった」などと言っておかないと話が通じない。周囲の状況を見て、記憶に「楽しかった」とメモしておく必要があるだろう。しかし、それはわれわれの通常の記憶とあまり変わらないものである。たとえば私の「痛かった」という記憶は「今痛い」というわけではない。一々痛さを再現していたらたまったものではない。
   確かに、今痛い、今赤いものが見える、今おいしい、と感じていることは絶対確かだと私は思っているのだが、過去について語るときはゾンビとどう違うというのだろうか。

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2009年5月23日 (土)

東条英機の頭にとまったハエ

   「ハエ全書」(マルタン・モネスティエ著 大塚宏子訳 原書房)によると、東条英機の自殺未遂の禿げ頭にたかったハエに報道陣は「エヴァ」と名付け「30秒以内に太っちょエヴァが飛ぶかどうか」という賭けをした。テディ・バースという記者がメモ帳でハエを叩き殺し、空のマッチ箱に入れた。このことが報道されて、ハエのエヴァは国際的に有名になったのだそうだ。

   このように、ハエだって有名になることができる。自分のことをウジ虫だと思っている人間が大それたことをしでかして有名になることは可能だが、有名になったからと言ってもしょせんはハエだったりウジ虫である。エヴァは自分がエヴァと名付けられたことも、国際的に有名になったことも知らずに、ただ叩き殺されただけのことである。

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2009年5月22日 (金)

世襲

   歌舞伎や能などの伝統芸能の場合は、幼児時代から所作などをたたきこまれるのだろう。そうでなければ風格のようなものが身につかないのかもしれない。映画「300」のレオニダス王のように帝王学を授けられているなら、あながち世襲は悪いと言うべきではない。問題は、たとえば小泉ジュニアが帝王学を学んでいるかどうかだ。窮地に陥っても一歩も引かないとか、自分の利益など顧みないとか、他者に対して慈しみの心を持てる人間に育ったのか? もしそうなら世襲してもらおう。(といってもお父さんがそういう人でないとしたら世襲だとは言えない? )
   世襲と言えば天皇陛下である。たとえば天皇陛下と皇后陛下がサイパンのバンザイクリフで黙祷する姿を見ると、こういう表現は怒られるかもしれないが「天皇として成長したな」と感じる。軽口、失言、自己保身の政治家ばかりを見ていると、何だか「ありがたい」ような感じがしてくるのである。皇太子夫妻にはまだその風格はないものの、何かの儀式で真後ろに座った中曽根元首相が、皇太子の頭が微動だにしないことにえらく感心したというエピソードを読んだことがある。皇太子はそのように育てられているらしいのだ。

   イラクのフセイン大統領は処刑される間際に死刑執行人に「この雑魚が」と罵ったというが、上に立つ者は武士の子が切腹の作法を習うように、失脚したり処刑されるときのセリフも考えておくべきである。「この雑魚が」はいくら何でもまずい。ルイ16世は「私は敵を許そう」といってギロチンで首を切り落とされたというではないか。

   政治家になるためには、世襲する、タレントになる、役人になる、宗教団体に入る、政治家の娘と結婚する・・・など様々な方法があるのだが、世襲以外の方法は問題にはならないのか? たとえば週刊文春5月28日号の”史上最悪「タレント知事」の仮面を剥ぐ 森田健作 汚れた「青春の巨匠」”という記事を鵜呑みにすべきだろうか? 個人的には森田健作氏は嫌いなのだけれど。

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2009年5月21日 (木)

ウェザリング

ウェザリング(weathering)は、模型における塗装技法のひとつ。もともとのWeatheringという語の意味は「風化」。
模型を製作する際、普通に仕上げの塗装のままでは、「塗りたて」の状態できれいすぎて実感的でない事がある。そこで、風雨にさらされた実物の外観を模した「汚れ」「風化」などの表現を加える技法があり、これをウェザリングと呼ぶ。特に戦車や戦闘機などのミリタリーモデルで多用されるほか、SF・アニメなど架空のメカ物にリアリティを与える技法としても用いられている。
wikipedia

   人間の顔はツルツルの「塗りたて」が好まれるようだが、わざと老け顔にするようなメイクが今後流行ったりすることはないだろうか。皺を一本一本描き足すとか、わざとシミを描いたりするわけだ。
   ストーンウォッシュやダメージ加工のジーンズはウェザリングの一種かもしれない。最近では「穴のあいたジーパンをはいてるよ」などと言う年配者も少なくなったような気がする。(自分の親しか知らないけれど・・・以前はよく「何だありゃ」などと言っていたものである。)

   この先、立派な人間になれる見込みは少ないが、「いい味出してる」などと言われたいものである。

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2009年5月20日 (水)

最後の審判の裁判員制度

   総計何十億人を裁かなければならないのだろうか。審判を下す役所が一つしかないとしたら、一人当たりコンマ何秒という裁きになるだろう。コンマ何秒でその後の永遠の時間が決まってしまうのは、いくら何でも情けないし、情状酌量もお願いしたい。「神様、あなたが人間の境遇を不平等に設定しているのが悪いんでしょう? 」などと悪態の一つもついてみたいではないか。ということで「人間が人間を裁く」方式を導入するというのはどうだろうか。裁判員の選出にあたっては、やはり無作為抽出でお願いしたいし、特定の宗教の聖職者ははずす、という配慮をしてもらいたい。

「お父さん、審判庁というところから通知が来ているわよ」
「そうか、私にもついにお迎えが来たか・・・」
「何を言ってるのよ。今年の5月から裁判員制度がはじまったんじゃない」
「人間が人間を裁くことなんかできるものだろうか」

   閻魔庁にあるとされる「浄玻璃の鏡」は、死者の生前の善悪の行為を映し出すというから、全自動で判決を下す一種の裁判機械のようなものかもしれないが、そんなものに裁かれたくはない。
   それとも、特殊なケースのみ裁き、多くの平凡な人間どもは、昔、国語の教科書で読んだ安部公房の「棒になった男」の結末のように放っておけばよいのだろうか。

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ところで私のインディアン・ネームだが、「赤い土竜」というのはどうか? レッド・ドラゴンじゃなくて、レッド・モールである。「もぐらさん」などと馬鹿なあだ名をつけられたことが一時期あったのだ。

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2009年5月19日 (火)

忘れな草

   掃除をしていたら数年前にイベントでもらった忘れな草の種が出てきた。草花に全く疎いので調べたら、なんとまあかわいらしい花だった。英名がforget me notsだという。ドイツ騎士とお姫様の悲恋が名の由来で、世界中で似たような意味で呼ばれているという。オオイヌノフグリとはえらい違いだが、オオイヌノフグリもかわいらしい花である。ちなみに花言葉は「信頼」だ。

   その他、あまり意味はないのだが、変な名前の花をあげてみると

ヒトリシズカ(センリョウ科)
ヘクソカズラ(アカネ科)
アクマノツメ(キキョウ科)
ブタノマンジュウ(サクラソウ科)はシクラメンのこと

   花言葉はヴィクトリア朝のイギリスで流行したそうであるが、花以外にもナントカ言葉というのがあったら面白い。たとえば昆虫とか、犬の種類などどうだろう。人間にも花言葉のようなものを考えると名前を覚えやすいかもしれない。クレージーホースとかシッティング・ベアといったインディアン・ネームがあったら楽しい。ちなみにインディアン・ネームを与えてくれるのがメディシンマンだという。ジャミロ・クワイのマスコットがメディシンマンだが、そんなことをする仕事だとは知らなかった。

   ところで、本名以外にインディアン・ネームを持つということは、悩みから脱する一つの手段かもしれない。自分の名前が何だか平凡な名前でつまんないと思う人は、メディシンマンにインディアン・ネームをもらったらどうか? 普通のサラリーマンが「蒼き狼」とか「独眼竜」などという名前を持っていたら仕事もしやすいかもしれない。有料でインディアン・ネームを考える商売をはじめたら儲かるだろうか。

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2009年5月18日 (月)

ロッティちゃん

   ドリームジャンボ宝くじを買ったら招き猫の「ロッティちゃんのマグネット」をもらったのだが、磁石が裏返しに接着してあって、冷蔵庫に全然貼りつかないという欠陥品だった。磁石をはがしてひっくり返して接着をしておいた。別にクレームをつけるわけではないが、ロッティちゃんグッズのコレクターがいたら激怒するだろうか。
   子供のお菓子ならばオマケが販売促進につながることはわかるのだが、ロッティちゃんが何の役に立っているのかがわからない。
   数年前に献血したときに献血車のチョロQ付きのボールペンをもらったことがあったが、歯磨きセットをもらうよりはいいかも、と思った。何かキャンペーンをやるなら、オマケを統一してくれると楽しい。たとえば警察ならパトカーのチョロQ、消防署は消防車のチョロQ、宝くじなら「宝くじ号」のチョロQというなら集めがいがある。若者の車離れを食い止めるためには子供のうちから車に親しめるような工夫をすべきだろう。

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2009年5月17日 (日)

バランス

「自分はけっこうイケてるかもしれない」という思いと「自分はダメな人間だ」という思いが交互にやってくるのだが、幸い、どちらか一方に偏ってしまうということはないようである。自分が何者なのか、ということは未だよくわからないのだが、バランスをとりながら綱渡りをしているのではないかと思うことがある。
警察官、学校の先生、判事といった、プラスのイメージを保たなければならない職業の人は、なかなかバランスをとることが難しいのかもしれない。聖人君主であることを求めすぎると、かえって不祥事を招きやすいかもしれない。

ボブ・ディラン
「一日のうちにぼくは変化する。ぼくが寝床にはいるとき、朝起きたときと確かに違う人間になっている。たいていのとき、ぼくは自分が何者なのかわからない。そして、それを気にもかけない」Interview with Bob Dylan,Newsweek,Ocober 13,1997

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2009年5月16日 (土)

自殺のコスト

   「自殺したい人々」別冊宝島445によると、日本人の自殺の約5割が在宅、4割が近場の高層ビルや線路、残りの1割弱が海、山への出張だそうだ。「出張自殺」という言葉もあるらしい。相模湖は出張自殺の名所で「相模湖の湖面には一定の流れがあり、死体が漂い集まる場所がある。毎年2、3体、多い年は8体もの水死体が岸辺に流れ着く」ということである。
   宿泊先のホテルや旅館で自殺した場合は
「首を吊って死なれたら室内が汚物まみれになり、清掃代や修繕費がばかにならない。最悪の場合はカーペット、壁紙、ベッド、調度品を変える。直接の被害額だけで100万 しかも損害保険が使えない」と、かなりの損害を出すことになる。
 毎日のように「人身事故」で列車のダイヤは乱れる。列車に飛び込んで自殺した死体は目も当てられないという。野たれ死には一見コストがかからないように見えるが、捜索費用や検死の費用がかかるだろう。

   本気と受け取ってもらったら困るが、公営の「自殺場」のようなものをつくればコストがかからないのではないか? それはひょっとしたらアウシュビッツのようなものになるかもしれない・・・効率的に(コストをかけずに)命を奪うシステムという意味である。

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2009年5月15日 (金)

人力車

   エコカーが流行っているが、物流は別だとしても、人間だけの移動に人間の数十倍の重量を持った自動車を用いるというのがそもそも無駄である。スピードも市内で買い物をしたり病院に通ったりするだけなら、さほど必要ではない。せいぜい時速20kmぐらいでいいだろう。
   自転車でもいいが、雨対策が難しいし、老人や障害者向けではない。人力車を観光用ばかりでなく、日常生活で用いたらどうだろう。車夫が重労働だというのなら、二足歩行ロボットに車を引かせたらいい。(高くつくだろうが)。単体で二足歩行させるのは技術的に難しいだろうが、車夫ならば安定するだろう。階段の場合はロボットに「おんぶ」すればよい。

   食糧生産では「オリジナルカロリー」という概念があるが、1km移動するのにどれぐらいエネルギーを消費するか、ということを考えてもいいだろう。インド人換算という失礼な数字があるが、1km移動するのにインド人と日本人ではどれぐらいの違いがあるものだろうか。日本国内でも、都会と田舎では格差があるに違いない。田舎の、特に高齢者は移動するのが一苦労である。医療問題を考える場合、移動の問題も重要なポイントになってくるだろう。

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2009年5月12日 (火)

顔面移植

【ワシントン5日AFP=時事】米国で5日、散弾銃で顔面を撃たれて同国で初めて顔のほぼ全面的な移植手術を受けたオハイオ州の女性の手術結果が公表された。

   とのことであるが、世界初の顔面移植が成功したフランス人女性の場合は、これが自分の顔であるということを受け入れることができないでいるらしい。「これは自分の顔面である」ということを納得するにはどうしたらよいのか。移植ではなくて自分の顔を整形した場合は「これは私ではない」という思いは少ないのだろうか。
   移植した顔面に痛みを感じることができたとしても、「いや、これは私の顔ではない」と主張することは可能だろうか。数年前に歯痛で一睡もできなかったことがあったのだが、「痛む歯は自分のものかどうか」などと余裕を持って考えるどころではなく、単に「ズキズキする痛み」が存在していたのであった。「痛みが所有感を生む」という仮説はどうも受け入れ難い。
   「自分が意思した通りの表情になっている」というのはどうか? 自分が笑っていると思っているとき、事実、顔が笑っている。悲しいときは悲しい表情をしている、という基準である。自分の映っている動画を見ると「え? これが自分? 」とがっかりしてしまうことがある。俳優ではない一般人は自分の思い浮かべる肉体と、客観的な肉体のギャップが大きいのではないだろうか。自分が意思した通りの表情になっていないとしたら、所有感は薄れるのではないか? 

   馬鹿げた設定だが、他人の手と自分の脳を直結し、他人の肉体についているのに私が痛みを感じたり、自分の意思で動かすことができたとしたら、「それは私の手だ」と感じるのだろうか。別に実験する必要はないけれど。

   フランケンシュタイン(正確にはフランケンシュタインのつくりあげた怪物)の場合は、肉体のことごとくが「自分のものではない」という感覚を脳は感じるのだろうか。義手と移植された手では「所有感」は違うものだろうか。たとえば、使い慣れた道具は「まるで自分の手のように」使いこなせるし、愛車が自分の肉体の一部になっているような人もいるかもしれない。機械自体はもともと自己主張をしていないから、他人の肉体の移植より親和性があると言えるのか。それともそういう問題ではないのか?

   いつもながら疑問形の文章が多くて申し訳ない。

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2009年5月11日 (月)

視界にコメントが流れる

   職場に明らかに「空気」が読めない長広舌の人がいて、不快感を表情に出さないと話が止まない。しかし「空気をよむ」ということはどういうことなのだろうか。ターミネーターの視界にはその場の雰囲気にぴったりのセリフが選択され、実際にそれを声に出すような仕組みになっている。(何だかきたないセリフが選択されていたような気がする)
   わが「長広舌クン」の視界にデジタル的に「皆さんの不快指数」が表示されたり、ニコニコ動画のように相手の感情を表現する言葉が流れるシステムが採用されれば、「空気が読めない」などと陰口をたたかれることもないだろう。延々と薀蓄を語っていると、視界に「ウザッ」とか「キモッ」とか「死んでくれない? 」などと流れていったらたまらないだろう。

   実際にわれわれが「空気をよむ」という場合、何かを読み取るということではなしに、本質を把握しているかどうか、ということなのではないか? 別にわれわれは視聴率をカウントしたり、アンケートをとったりしながら生活しているわけではない。

 長広舌は一体どうしたら治療できるのだろうか。別に本人の為を考えているわけではなく、「いいかげんにしてくれ! 」と思っているのだ。

  人間関係で悩んでいる人は「余分なことは言わない」ということを実行するだけでも改善するのではないだろうか。たとえば私は「早くしてくれ」と絶対言わないようにしている。相手が手間取っていたら、「いいですよ。別に急いでないから」と言うと、相手はほっとしたような表情をするのである。

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2009年5月10日 (日)

ネットでウケるネタ

断言しよう。ネットでウケるネタは以下のものである。
①話題にしたい部分があるもの、突っ込みどころがあるもの
②身近であるもの(含む、B級感があるもの)
③非常に意見が鋭いもの
④テレビで一度紹介されているもの、テレビで人気があるもの、ヤフートピックスが選ぶもの
⑤モラルを問うもの
⑥芸能人関係のもの
⑦エロ
⑧美人
⑨時事性があるもの

「ウェブはバカと暇人のもの」中川淳一郎 光文社新書

 他人事ではないのだけれど、自分のブログを多くの人に見てもらうという喜びは何に根ざしているのだろう。自分が話題の中心になったような錯覚を持つということなのだろうか。
 たとえば「こんなお弁当、つくっちゃいました」という写真つきのブログの記事を私は読みたくはないが、35年間食事の写真を撮り続けたドクター中松のように継続すれば意味があるかもしれない。特大のウンコをしたときに、流すのがもったいなくて、誰かに見せたくなるものであるが、もし毎日のウンコを毎日写真に撮っておいたら貴重な資料になるかもしれない。
 私のブログでは「単なるおもいつき」が延々と掲載されているのだけれど、それは脳みその排泄物のようなものかもしれない。他人様には迷惑だろうが、排泄しないと脳みそが便秘になってしまうのである。日常生活では、私の脳みその排泄物を撒き散らす場が全くない。職場では極力「単なるおもいつき」を表明しないように気をつけている。

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2009年5月 9日 (土)

虫コナーズの歌

虫コナーズの歌が頭にこびりつく。

金鳥 虫コナーズ ベランダ編

伴奏はテクノポップのフレーバーだが、おばちゃんのデュオというミスマッチが独特のこびりつき感をかもし出している。これがテクニックのあるプロの歌手だったら何の引っかかりもないCMソングになっていたかもしれない。ポニョの歌も、大橋のぞみちゃんではなくて、もし児童合唱団に所属しているような上手な子が歌っていたら聞き流してしまったかもしれない。
しかし、単にヘタな人が歌う、というだけでは不快感が残ってしまう。その辺の微妙な感覚に優れている人が企画しているのだろう。

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2009年5月 8日 (金)

本来出会わなかったであろう人との交流

ネットによって、本来出会わなかったであろう人と人が交流できるようになったのは良いことだ! などとよく言われるが、おそらく、本来出会うはずのなかった人々が交流するようになったことで、摩擦のほうがより生まれたのではないだろうか。

「ウェブはバカと暇人のもの」中川淳一郎  光文社新書

   多くの動物がやっていることであるが、自分の縄張りを守るために、身近な個体と闘争することには意味がある。しかし、空間的に隔たりのある相手を悪しざまにののしることにどのような意味があるのだろうか。
   もちろんネットでは物理的な距離は問題とはならない。では共通のジャンルにおける心理的な縄張り争いなのだろうか。特定のアニメやゲームやタレントに心酔している人が、他人の趣味を非常に悪し様に言うことがある。そのジャンルで自分の心酔している対象が一番であるということを主張したがるのは、自己主張の変形かもしれないが、どこの誰ともわからぬ人間の優位に立つということにさほど意味があるとも思えない。
   逆に、ネットやテレビの映像でしか知りえなかったであろう赤の他人に同情するケースはどうだろう。被災地で親を亡くした子供や、障害に苦しむ人や、余命あと半年の人に同情し、共感することで得られるメリットはほとんどないではないか。動物も時として利他的行為をする場合があるが、それは自分の種を守るという意味があるはずである。
   空間的な隔たりはさほど問題ではないと言ったが、時間的な隔たりはどうだろう。すでに死んでいるヒトラーを憎むとか、まだ生まれていないわれわれの子孫のことを心配するということはありえるとしても、紀元前5世紀の人間や、1000年後の未来人に同調することは難しいのである。

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2009年5月 7日 (木)

好きな人の舐めた飴

   シュワルツェネッガー氏のなめたのど飴が「シュワルツェネッガーのDNA」としてインターネット・オークションに出されたことがあった。今昔物語には平貞文という男が、自分になびかぬ女性のウンコを見ればあきらめられるだろうと「おまる」を奪う話が登場する(結果は逆効果だったが)。
   シュワルツェネッガーの舐めた飴など欲しくはないが、たとえば菅野美穂のなめた飴なら金を出して買ってもよい。かわいい同級生の縦笛やコップを舐めて「間接キス」をしたい気持ちはわからないではない。
   何で好きな人の体液や排泄物などを欲しがるのか? 以前、あこがれの人の直筆のメモを大切に保管していたことがあったのだが、一体私は何のつもりだったのだろう。
大好きな人のものだったら、次のアイテムは欲しいと思うだろうか。

1)足の指の間の垢
2)爪の垢
3)フケ
4)血液
5)耳くそ
6)歯くそ
7)かさぶた
8)目ヤニ
9)ハナクソ
10)ゲロ

   無理やり10個並べてみたが、いくら菅野美穂のものでも耳くそなんか欲しくはない。いや、本当のファンならばそこまで欲しがるのだろうか。

※どうしても食べなければいけないとしたら、1~10+うんこ、おしっこの中から何を選ぶだろう。好きな人と嫌いな人で想像してみよう。

   変なことを言って申し訳ない。

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2009年5月 6日 (水)

教授の条件付け

「人はなぜ迷信を信じるのか~思いこみの心理学」で「教授の条件付け」というゲームの記述がある。(スチュワート・A・ヴァイス 藤井留美訳  朝日出版社) 

学生たちは教授が何か特定の動きをしたときにのみ同意を表わすことを申し合わせる。あるとき、教授が左に動いたときに反応を示すことにした。すると講義のなかばで、左に寄りすぎた教授は教壇から足を踏み外してしまった。

   連休明けの授業は耐えがたいという学生諸君は一度試してみたらどうだろう。たとえばつまらないダジャレに大ウケすることを申し合わせたら、ダジャレを連発する先生ができあがるだろうか。熱く語る先生に生徒がしらけた反応を続けたら先生の温度は下がるだろうか。
生徒の反応などにお構いなしの、全くフィードバックがきかない先生がたまにいるが、少しは変わるかどうか試してみるのも面白い。怒られても知らないが。

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2009年5月 5日 (火)

商品化

   堀井憲一郎によると、クリスマスをカップルの日に変えた(「商品化した」)のが1983年の女性誌「アンアン」である。そこに掲載された「クリスマス特集 今度こそ彼の心(ハート)をつかまえる! 」という記事こそが、クリスマスが「恋人たちのものになった」ことを「歴史的に高らかに宣言した」というのである。それまでのクリスマスは贈り物を期待する子どもたちや(いまもそうだろうけど)、三角錐の帽子をかぶって飲んだくれるサラリーマンおやじたちのものだった(それだけでも十分バカだったけど)。
『日本を滅ぼす「自分バカ」』 勢古浩爾 PHP新書

   バレンタインデーのチョコレートや節分の恵方巻きも「商品化」されたものだし、茶髪も理美容業界がヘアーカラーを一般化する狙いで「カラー・ジャパン」キャンペーンを大々的に展開してから広まったという。一種の「商品化」だ。そりゃ、景気は回復するに越したことはないが、われわれの習慣や生活が誰かの商業的な戦略で決定されていくことが恐ろしい。
   地デジやブルーレイの画面はきれいだし、光通信は速いが、いつわれわれがそうしてほしいと言ったのだろう? 高速料金が割引になったからと言って、何で渋滞を我慢してまで遠出をしなければならないのだろう? 何で「キャンペーン実施中の今ご契約になるとお得です」という店側の都合で契約時期を決めなければならないのだろう。ウィンドウズXPで十分なのに、何でVISTAに変えなければならないのだろう。確かにセキュリティが強化されたかもしれないが、自分が使わないような機能がいっぱいだ。滅多に来ることのない店で何でポイントカードを作らなければならないのだろう。ポイントカードをつくったら、ポイント5倍デーにはその店に行かなければならないではないか。何でレジでいちいち「ポイントカードはお持ちですか? 」と聞かれなければならないんだろう。気を利かして聞かれる前に「ポイントカードは持ってません」と言ったら怪訝な顔をされてしまった。レンタルビデオ屋のキャンペーンは何でコロコロと変わるんだろう・・・ちょっと論点がズレてきた。

ちなみにヒトラー総統閣下がクリスマスについてお怒りのようです

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2009年5月 4日 (月)

ピグマリオンとどこが違うのか?

   ピグマリオンが自ら彫刻したガラテアを愛したように、彫像、人形、動画、写真、アニメ、歴史上の人物、小説の主人公を愛してしまうことはそう奇妙な現象であるとは言えない。皮膚の質感も本物そっくりにつくられたロボットならば、人間相手とほとんど変わりのない恋愛体験が可能かもしれない。あるいは、非常に美しいゾンビならば愛してしまうこともあるかもしれない。
   ゾンビで考えよう。ゾンビは私に抱かれて嬉しそうなそぶりをするのだが、実は何も感じてはいない。私に対して愛を告白したとしても、それは芝居をしているにすぎないのである。しかし、本物の人間だって、本心から私を愛しているという保証はない。あくまで私が自分に都合がいいように妄想しているだけかもしれない。金を払えば私のことを愛しているような素振りをする人間はいるかもしれないが、それはゾンビとどう違うのだろう。
   私が「真実の恋愛」を経験したことがないからそんな馬鹿なことを考えるのだ、と言われるかもしれないが、はたしてピグマリオンのような「思い込み」なしで「真実の恋愛」は可能なのだろうか。

   今は亡き女優の若かりし頃の姿に一目ぼれしてしまったとする。本人はもうこの世にいないという事実は恋愛を思いとどまらせるだろうか。しかしそれは死体を愛好するようなおぞましいことではなくて、画面上では生き生きと動いているのである。
   たとえば、「マックスヘッドルーム」のように、画面上の人物に人格を付与して自律的に行動できるようにしたら、たとえ「本人」がこの世にはいないとしても、二次元の人物と「真実の恋愛」が可能になるだろうか。

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2009年5月 3日 (日)

死んでしまった人間を憎む

   イギリスの王政復古のとき、父を清教徒革命で処刑されたチャールズ2世はクロムウェルの遺体を墓から掘り出して絞首刑にし、斬首した上でさらし首にしたそうである。
   中国で売国奴とされる秦檜は岳飛廟の前で夫婦そろって縛られた像となっている。岳飛を参拝する人は、秦檜夫婦に唾を吐きかけるのだそうだ。
   失恋した人は相手の写真を破るだけでは気がすまず、切り刻んだり、目を突き刺したり、火あぶりにしたりするかもしれない。
   心身二元論的に言えば、憎むべきは肉体に宿っていたはずの「精神」である。単なるモノにすぎない遺体や銅像や写真に対して恨みを晴らしても、それは錯覚に過ぎない。「被害者」側の一種のストレス解消の方法だと考えるべきだろうか。
   では、「加害者」が存命中に恨みを晴らす場合はどうだろう。死刑にしてしまったら、痛めつけたいはずの「精神」が消滅してしまう。できれば生かし続けて苦しませたいわけだが、相手が苦しみ続ければ恨みは晴れるのだろうか。次のようなケースはどうだろう。

1)「加害者」には痛覚がない。
2)「加害者」には犯行当時の記憶がない。

1)は遺体や銅像や写真と同様、モノを痛めつけているだけである。
2)の場合は本人に自覚がないのだから謝罪や反省を引き出すことはできない。

   ユダヤ人にとってヒトラーは今でも憎悪の対象だろうが、ヒトラーがもはや存在しない中で憎悪し続けることを可能にしているのは何だろうか。過去の記憶? しかし、記憶もまた「ヒトラーの精神」とは別に存立しているのだとしたら、遺体や銅像や写真と同類になってしまう。

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2009年5月 2日 (土)

人生の達人

    どこが気に入らないのかははっきりしないのだが、「人生の達人」とか、「エコ生活」とか、「自分らしく生きる」とか、「品格」とか、「こだわり」とか、そういう立派な生き方をしている人がどうも苦手である。
   定年後に白髪を伸ばして後ろで縛り、作務衣を着て蕎麦打ちをしたり、家庭菜園で野菜を作ったり、「田舎暮らし」をしたりすることは別に構わないのだが、そのような生き方が「自分らしく生きることである」などと自身たっぷりに言われると、何だか嫌悪感を感じてしまうのである。
   自分が病気になったり、配偶者が要介護になったりすれば、たちまちそのような余裕のある生活は瓦解する。悠々自適に生きられる時間というのは意外と短いのではないかと思う。
   3年前亡くなった叔父は死期を悟ったとき、葬式についての指示を書き残し、医大に自分の体を献体する手続きをした。そうしたことを黙々と実行できるかどうか、ということが人間としての品格につながるような気がする。
   どんな趣味を持ったとしても勝手だが、「人生の達人」的なレッテルを貼るのはあまり品がいいとは言えないと思うのである。

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2009年5月 1日 (金)

少則得 多則惑

   少なければ則ち得(う)、多ければ則ち惑う

   所有物の少ない人は、かえってものを得る楽しみをもつ。あまり多くのものをもっていると、新しいものを得ても、かくべつ得たという喜びを感じない。品物をたくさんもつということは、楽しみのようではあるが、実はどれを用いるべきかに惑うことになる。同様に、知識や学問が多ければ、思想の惑いが多くなる。  諸橋轍次 中国古典名言事典 「老子」

   消費の喜びは、収入や財産に反比例するのだろうか。単純にそうも言い切れない。たとえばコレクターは多くのものを持っているがゆえに、完全を目指そうという欲求を持つし、多くの領域を支配する者は、未支配地域が少しでも残っていると気になって仕方がない。記録保持者はそれに満足することなく、少しでもいい記録を残そうとする。
   国内消費を伸ばすためには、人々の所有欲や支配欲を増長させた方がいいのだろうが、生きる喜びという点からすると、そうした方向での豊かさがいいとは必ずしも言い切れない。

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2009年4月30日 (木)

最後の言葉

   人生最後の瞬間に、何か言わなければならないのだろうか。「えー、本日はお日柄もよく」といった決まり文句があるなら楽であるが、独創性を発揮したがる人もいるようだ。辞世の句もいいが、後の世に残ることを考えるとヘタな句などつくれない。市民講座などで「辞世の句講座」でもあればいいのだが。

   最後の言葉を集めた「人間最後の言葉」という本がある。(クロード・アヴリーヌ 河盛好蔵訳  ちくま文庫)たとえば、

   アナクサルコス(アブデラの哲学者)はキュプロスの暴君ニコクレオンのために、石臼のなかで磨り潰される刑に処せられたが、次のような言葉を残している。

   「おまえの好きなだけ、このアナクサルコスを入れた袋を磨り潰すがよい。中身は絶対に磨り潰されないから」
   ニコクレオンが怒ってかれの舌を切ることを命令すると、かれは自分の歯で舌をかみ切って、それをニコクレオンの顔の上に吐き出した。

   これはかっこいいが、絶対真似できない。次もすごい。殉教者の聖ラウレンティウス(220-258)は死刑執行人に次のように言ったそうだ。

   「さて、片側はよく焼けたから、わしを裏返すがよい。そうすればほどよく焼けるだろう」

   昨日話題にしたヒトラーは

   「ゲッペルス、おれと妻の死体がよく焼けたかどうか確かめることは任せたぞ」

   だそうだ。「人間最後の言葉」にはないが、大田蜀山人の

   「今までは他人(ひと)のことかと思うたに、俺が死ぬとはこいつはたまらん」

   という句は共感できる。死ぬ覚悟のない私は「やだなー、死にたくないよー」と言って死んでいくかもしれない。ただ、最後にカッコいい言葉を残したからといって「それが一体何だ」というしらけた気持ちもある。おそらく私は無言で死んでいくのだと思う。

※最後の瞬間に脳裏に浮かぶことが「あ、今日ツタヤにDVDを返さないと延滞料をとられちゃう」ということだったりしたらいやだと思う。

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2009年4月29日 (水)

ええ奴やんか

   1907年11月末からクリスマス直前における母の死まで、母の看護をはじめたアドルフは、今までとは全く違う若者になった。いつも独善的で一方的、好き嫌いが激しく、興奮して激怒しやすい彼は、友のクビツェクが自分の目を疑うほど、やさしく、静かで忍耐強い青年に変わったのである。リンツ市ウファーのブルーテンガッセ9番地にアドルフを訪ねると、いつも台所でエプロンをかけ、家事をしながら、ベッドに横たわる母にやさしい眼差しを投げかける彼に接したクビツェフは、思わず目頭が熱くなるのを抑えられなかった。そして胸の激痛にあえぐ母を見つめるアドルフの悲しみに満ちた顔つきは、より一層涙をそそったのである。痛みを鎮めようと母のクララがベッドから身を起こそうとすると、アドルフはすかさず駆け寄り、やさしく母の背中を支え助けるのであった。
「青年ヒトラー」大澤武男著 平凡社新書

   ヒトラーであることを知らせずに、この瞬間だけ取り出したら「ええ奴やんか」と誰もが感じるに違いない。

   嘉門達夫に「ええ奴やんか」という歌がある。「新・ええ奴やんか」 作詞: 嘉門達夫/おのしんじ/タイゾー/のほほん狸  作曲: 嘉門達夫

深夜のタクシー運転手 ムスっと愛想のない感じ
声をかけても知らん顔 短い距離じゃアカンのか
「1120円ね。え? 小銭ないの? じゃあ1000円でいいや」
ええヤツやんか ええヤツやんか
あー見えてもなかなか ええトコあるやんか

   ヒトラーの一生を描いた映像があったとする。年齢を経るごとに映像をストップさせて「ええ奴かそうではないか」を判断していくとする。あまり熱心に勉強をしなかったかもしれないが、10歳の段階で「悪いヤツや」という評価はあるまい。18歳の段階では、「何やってもうまくいかない」悩みをかかえた若者にすぎない。軍隊では勇敢な伝令として活躍している・・・
   このような方法で、「あ、ここから『ええ奴』ではなくなったんだ」という時点を絞り込むことができるだろうか。多分できないと思う。陶酔して演説する中年のヒトラーの中にも、冒頭の、母親を思いやるアドルフの名残りがあるはずである。
  ヒトラー、ナポレオン、リンカーン、レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・様々な歴史上の人物の青年時代を自分を比較したとき、誰に一番親近感を持つだろうか。圧倒的な才能を持たず、何をやってもうまくいかないという点で、私はヒトラーに近いような気がする。

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2009年4月28日 (火)

核兵器保有宣言都市

   「続・猿の惑星」(BENEATH THE PLANET OF THE APES 1970年作品)では、猿と抗争しているミュータント化した地底人が最終兵器のコバルト爆弾を神とあがめている。存在するだけで相手をひれ伏させるという点では一種の神なのかもしれない。映画ではコバルト爆弾のスイッチが押されて地球は壊滅する。一発で地球が壊滅するとしたら、このコバルト爆弾は「敵を滅ぼす」ものではなく「敵も味方も同時に滅ぼす」という結末を想定したものである。これでは一種の自爆テロである。腹にダイナマイトを巻いて「逆らったらスイッチを押すぞ」と相手を威嚇するわけだ。

   現憲法では日本は核弾頭ミサイルを敵国に飛ばすわけにはいかない。憲法を変えることなく核武装するなら「続・猿の惑星」の地底人のように、据え置き型の核兵器を東京のど真ん中に設置し、「もし攻めてきたら自爆してやるからな」と相手を威嚇するのはどうか。できれば、一発で地球が吹っ飛ぶような威力の兵器が望ましい。「やられたらやりかえす」のではなく、「もし核兵器を使ったらお前らも道連れにして自爆してやるからな」という覚悟を国民全員が持つわけである。
   国民的総意が難しいなら、都市ごとに決議したらどうか。古代ギリシアの都市国家にそれぞれ守護神がいたように、各都市が核兵器という守護神を祭壇に置くのである。核兵器廃絶平和都市ならぬ、核兵器保有宣言都市というわけだ。
いくら何でもこりゃ無茶な設定でしたね。。

   中川昭一氏は日本も核武装をすべきだと主張しているが、しらふでそう言ったのだろうか。打たれ強い人だ。

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2009年4月27日 (月)

懐中電灯

   私の意識は私を構成しているものを全て同時に把握しているわけではない。小指をタンスの角にぶつけたときにはその痛みに集中してしまうし、今日結婚式でスピーチをしなければならないときには、そのことで頭がいっぱいになってしまう。「小指の痛み」と「スピーチの不安」を同時に感じることもできるかもしれないが、今、それを想像することはかなり難しい。
   意識を、大きな建物を懐中電灯を持って巡回する警備員のようなものだと考えてみよう。意識に上るのは、懐中電灯で照らされた部分である。ただ、毎日全てを巡回しているわけではない。たとえば広大なルーブル美術館の全ての収蔵品を一日で見るのは難しいので、ハンムラビ法典と、ミロのヴィーナスと、サモトラケのニケと、モナリザと・・・というぐあいにメインの作品を飛び飛びに巡回していくのである。「私という博物館」の収蔵品をすべて巡回すると何週間もかかるかもしれない。どうでもいい収蔵品は適当に忘れる方が警備員にとってはありがたいのである。

   五感を同時に意識するということが可能なのかどうか。今ちょっと試しているのだが、意識のしすぎなのかどうか、どうもうまくいかない。

※河村官房長官は桑田真澄に似ている。

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2009年4月26日 (日)

ジャンクライフ

(その1)
  ジャンクスリープ(Junk Sleep)とはテレビや音楽をつけっぱなしで寝ることで、十分な睡眠が取れない現象をいう。睡眠に限らず、われわれの日常生活は中途半端な形で営まれている。テレビに気をとられながら食事をし、会議中にいたずら書きをし、授業中に白昼夢にふける。誰かと会話しているときもうわの空だったりする。このような生活を「ジャンクライフ」とでも名づけようか。
  平均寿命は格段と延びたが、「ジャンクライフ」の時間が増えただけなのであって、十分生きたとはいいがたいかもしれない。そのうち、「自分が死んだことにも気がつかないうちに死んでしまう」という死に方が増えるのだと思う。たとえばテレビをつけっぱなしで死んでしまったりするわけだ。そんな死は「ジャンクデス」とでも言うのだろうか。

(その2)
  男女の恋愛もJunk loveだったりするのかもしれない。

映画「スリーパー」の中で、ウッディ・アレンは、マクドナルドが重要で、しかもやたら目につく要素となる未来世界ばかりでなく、セックスまでもがマクドナルド化の過程を完成させた社会を描きだした。

マクドナルド化する社会 ジョージ・リッツア 正岡寛司 監訳 早稲田大学出版部

  「お手軽だから」という理由で結ばれる男女もいるのだと思う。「お手軽だから」と言ってはミもフタもないので、「価値観が同じ」とか言うのではないのか? また、

マクドナルドは効率的な食事だけを提供しているわけでなく、明るく照らされたカラフルで魅力的な空間、けばけばしい包装、子供のほしがる品々、景品や各種のコンテストなど、要するにマクドナルドはつい買い食いしたくなってしまうカーニバルの雰囲気を演出している。
同じく「マクドナルド化する社会」

  都会には「つい恋愛したくなってしまうスポット」というものがあるのかもしれない。恋愛のマクドナルド化は少子化対策としては有効かもしれない。

  100%ピュアな恋愛は保存がきかないかもしれない。つなぎとして他の肉を入れたり、保存料や人工甘味料なども使用してもいいのではないか? ダメ?

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2009年4月25日 (土)

筆談

   週刊文春4月30日号 三国志 日本人が好きな「英雄」と「女」 という対談(歴史家の加来耕三氏と中国文学者の渡辺精一氏)で、加来氏が「劉備と孔明は言葉が通じたのか」という疑問を提出。渡辺氏は次のように言う。

渡辺・・・通じなかったでしょうね。言葉の違いを乗り越えることができたのは、やはり漢字文化。前漢時代には、南方と北方の人が、間に二人通訳を置いて話していたという記録が残っていますが、知識人同士は、筆談すれば意思疎通ができたのではないかと思います。

   種子島に鉄砲が伝来したときも、中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行った(ウィキペディア)という。

   韓国で漢字の学習にもっと力を入れようという動きがあるらしい。ハングルに誇りを持っているのはわかるが、もう少し漢字を使ってくれれば筆談でコミュニケーションがとれ、東アジアの連帯感が高まるような気がする。もし北朝鮮も漢字を使用すれば、「わけのわからん国」というわれわれのイメージも少しは違ってくるように思う。

   英会話が苦手な日本人が多いのだが、ネイティブ並の発音、などという努力はやめて、とにかく英語のスペルをいっぱい覚えるというのはどうだろう。英語も筆談ですまそうというわけである。

   世界共通語も、まず筆談で統一するとか、手話で統一するというのはどうだろう。何だっていい。私が知っていることを、違う民族の人も知っていて、意志の疎通ができる、ということは友好関係の第一歩であるように思える。せめて手話だけでも世界共通の単語ができないだろうか。「手話は世界共通ではなく、アメリカの ASL・イギリスのBSL・フランスのLSF等のように各国で異なる。(ウィキペディア)」ということである。

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2009年4月23日 (木)

タバコの吸いすぎ

   アニメ「スカイ・クロラ」の登場人物がタバコを吸いすぎだという非難がある。しかし、昔の刑事もののドラマをみれば、喫煙シーンはありふれたものである。刑事コロンボも葉巻をよく吸う。「メタルギアソリッド4」のスネークも咳きこむくせにタバコを吸う。
   画面の登場人物がタバコを吸ったからと言って、副流煙の影響を心配する必要はない。クレームは、未成年への影響を心配してのことなのだろうが、ドラマの登場人物が毎週殺人や自殺で死んでいくことの方が影響が大きいように思える。テレビで放映されたドラマで年間何人が殺されたり自殺したりするのだろう。いや、別に架空の殺人を咎めようというわけではない。
   ただ、幼い子供向けの番組では気をつけなければならない。やはりガチャピンがタバコを吸ったり人を殺したりしてはいけないのだろう。

   架空の人物を、タバコを吸ってもいいキャラ、吸ってはいけないキャラに分けると面白いだろう。

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2009年4月22日 (水)

怖い人との付き合い方

   一見チンピラ風の人に丁寧な調子でものを尋ねたりすると、意外と親切に教えてくれたりするものである。こちらが上から説教口調でものを言うと反発されてしまう。コミュニケーションをとりたいとき、説教は最悪の方法である。
   たとえば学校の先生は「いい? 明日までに課題を提出しないと親を呼びますからね」と勝手に「正義の」ルールを決め、それを守らないと制裁を課すわけだ。もちろん悪いのは課題を出さない生徒なのだけれど、これでは「上の者の言ったことに服従する」という躾を行ったにすぎない。しかし、次のような意見もある。

 たとえばヒトラーである。ヒトラーはユダヤ人数百万を虐殺した。そういうヒトラーと「お友だち」になってはいけないのである。
「ヒトラー」が毎年十万人のユダヤ人を殺していたとする。そこへ「和」を求めて出かけて行って「話し合い」の結果、虐殺数を五万人に減らしてもらったら、「話し合い」は成功したと言えるのか?
 もちろん、言えない。ヒトラーを殺してでも、その数はゼロにしなくてはいけないのだ。ところが日本人はこういう考え方を嫌う。それも「わ」の影響である。「悪人」も含めて「誰とも仲よく」というのが、今の日本の外交姿勢である。
井沢元彦 逆説の日本史 古代黎明編 p109

   英仏の宥和政策がヒトラーをつけあがらせたことを考えると、北朝鮮に対しては厳しい態度で接する方がいいのだ、という意見もわかる。しかし、何とかキレさせずにうまくチンピラと付き合うような方法もあるのではないか? 「向こうが核武装するなら、こっちだって核を持とうじゃないか」と言いたい気持ちはわからないではないが、これでは相手と同レベルの国家になりかねない。

※「あんたの考えは甘いんだよ! 」と言われたとき、どう対応したらいいのだろう。たとえば、「あんたが甘いから子供が悪くなったんだ」と言われた親は、突然厳格な親になった方がいいのか? あるいは「先生、うちの子が悪さしたらどうか殴ってください」と言われた先生は、どう対応したらいいのだろう。「子供を殴る=熱心な先生」と思い込んでいる親から見たら、温和な先生は尊敬に値しないかもしれないが、適当に「はいはい」と言っておけばいい。親の言葉を真に受けて、今まで殴ったことのない人が急に殴ったりすると子供を怪我をさせてしまう。

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2009年4月21日 (火)

偶然が与える試練

   昨日の続きである。自分のクラスの生徒がナイフを持った男に襲われそうになったとき、担任の先生は咄嗟に身を挺して子供を守った方がいいだろうか。ちなみに、その先生には生徒と同じ年頃の子供がいたとしよう。自分の子供のためにはここで死ぬわけにはいかないが、生徒を守らずに逃げてしまったら、一生卑怯者扱いを受けるし、一生負い目を持って生きていかなければならない。
   遠足で海岸に行ったら、生徒が一人波にさらわれてしまった。先生は泳ぎが苦手だから、助けを待って救助した方がいいと判断した。しかし他の生徒が助けようと海に飛び込もうとしている。早くしないと死んじゃうよ、と生徒たちは叫んでいる。この場合、先生は海に飛び込んだ方がいいのか? 
   このような特殊な状況に陥らなければ、この先生は誰からも非難されることなく、一生平凡に暮らすことだってできたわけだ。神の試練と言いたいところだが、もし試練を与えたのが神ではなく、単なる偶然だったとしたら、この難問に答えを出す試みに一体何の意味があるというのだろう。

※チャン・チェン(レッド・クリフの孫権)と電気グルーブのピエール・瀧は似ている。

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2009年4月20日 (月)

愛する人を助けるために自分が犠牲になる

   トロッコ問題とは、倫理学の思考実験である。

トロッコの制御が利かなくなり、このまま暴走すれば進路の先にいる5人に衝突する。運よく転轍機のところにいた人がトロッコに気づいた。転轍機を動かせばトロッコの進路が変わり助かる。ところが切り替える進路のほうにも1人がいた。そのまま進路Aにいる人を死なせるか、それとも進路Bに切り替えてそちらの人を死なせるか、どうすればよいか?
             ウィキペディアより

   では「誰かを助けるために自分が犠牲になる」というケースはどうだろう。たとえば、

1)自分の臓器を与えれば相手は助かるが、自分は死んでしまうという場合。
2)凍りついたポトマック川に飛行機が墜落。投げ出された人を助けるために自分の救命浮き輪を投げ、自分は死んでしまうという場合。

   Aが犠牲になって、Bが助かったとすると、Bは「自分のためにAは犠牲になったのだ」という負い目を一生背負い続けることになる。特にAとBは身内であった場合、その思いは堪えがたいものとなる。そんな思いをBにさせたくないとしたら、Aは自分を犠牲にすることを断念した方がいいだろうか。
   では、Aが犠牲になることによって多数が助かるとするならば、Aは相手の負い目など気にすることなく、犠牲になればいいだろうか。たとえば自分が犠牲になれば人類全体が救われるようなケースである。逆に複数の人間の犠牲で一人が助かる場合はどうだろうか。

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2009年4月19日 (日)

発破

   神が「光あれ」と言う前に、配線はすべて済んでいて、「光あれ」というのは「発破」と同様の合図だった、という説はどうだろうか。もちろん神自ら配線したわけではなくて、下請けに依頼したわけである。
   それとも、「光あれ」はたとえば雪山の頂上で雪玉を転がすようなもので、宇宙はどんどん雪だるま式にふくれたのだ、ということだろうか。宇宙がインフレーションを起こしたと考えるならば、雪だるま式の方がうまく説明できるように思える。

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2009年4月17日 (金)

言葉攻撃の防御

   悪意ある「言葉のミサイル」が発射されたら、それを「言葉のPAC-3」で迎撃するのは至難の技である。とすると、防御をしっかりすることを考えなければならない。装甲を厚くするという手もあるが、悪口を言われても何も感じない、というのでは馬鹿に見えてしまうから、うまく方向をそらすような対応が必要だ。(西洋の甲冑の銅のように、剣が滑って方向がずれるような造りが望ましい)
   相手の弱みを握って報復攻撃の可能性を示唆するのもいいだろうが、お釈迦様の対応が一番参考になる。つまり、悪意ある言葉を受けたら、「私はそれを受け取りませんので、そっくりお返しいたします」と言えばいいのだ。相手の力をうまく利用した、合気道のような対応方法である。
   いつかこのような対応をしてみたいと思っているのだが、なかなか試すチャンスがない。不意打ちをくらったら、多分キレて報復的な言葉を返してしまうかもしれない。あと、韓信の「股くぐり」をいつかやってみたい。チンピラに因縁をつけられ、屈辱的なことをやれと言われたら、ニコニコしてそれに従うのである。股をくぐるふりをして急に頭を上げて急所攻撃をしたり、「ごめんなさい」と言っていきなり頭を下げて顔面に頭突きをするなど、いろいろなパターンを空想するのだが、なかなかそういうチャンスはやってこない。

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2009年4月16日 (木)

同類がいない

   孤独だということは、同類がいないということである。周囲に人がいても「バカばっかりだ」と思っていれば孤独を感じることになる。私は酒が入ると「他人はバカばっかりだ」と感じる悪い癖があり、酒席では孤独感にひたってしまう。「何クライ顔してんの? 」と「バカ」に言われたくないので眠ったふりをする。全く、何様のつもりだろう。
しかし、皆誤解しているのだが、「孤独」=「暗い」ではないし、「孤独」=「悲惨」というわけではない。また、友人がいなくても全然寂しくない人は孤独ではない。
スヌーピーの兄のスパイクはニードルス砂漠でサボテンを友として生きている。職業は不動産屋だそうであるが、孤独にめげているわけではない。
目を見ればわかる。

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